24.ニッカ池 (赤穂浪士その一) 25.ニッカ池 (赤穂浪士その二)
26.文七元結(ぶんしちもっとい) 27.有栖川公園
28.有馬家化け猫騒動 29.水野十郎左衛門
30.麻布幼稚園 31.お竹如来
32.黄金、白金長者(笄橋伝説 その1) 33.麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
34.森元三座 35.十番稲荷神社
36.スペイン村(和朗フラット) 37.祥雲山竜沢寺(麻布区役所跡)
38.坊主湯














24.ニッカ池(赤穂浪士その一)


麻布トンネルの手前にテレビ朝日放送センタ−入り口がある。私が子供の頃はニッカウイスキ−麻布工場で、ここに忍び込み中の池でザリガニを捕った先輩もいた。その池を”ニッカ池”と呼んでいた。江戸時代ここは長州毛利家の支藩で長府毛利家の屋敷であった。池のほとりに石碑がありそこには、赤穂浪士が切腹した場所だと記されている。
元禄15年12月14日(1702年)討ち入りを遂げた赤穂の浪士たちは、高輪の泉岳寺で主君浅野内匠頭の墓前への報告後、愛宕下の大目付仙石伯耆守久尚邸に移され、そこで大名4家へ御預けの申し渡しを受けた。
細川越中守邸(三田).......大石内蔵助以下17名。
松平隠岐守邸(愛宕下).....不破和右衛門以下10名。
水野監物邸(芝増上寺あたり)...矢頭右衛門七以下9名。
毛利甲斐守邸(麻布日ケ窪) ....岡島八十右衛門以下10名。
この4大名の人選は、浅野、吉良両家につながりを持たない公平な立場を考慮したものによると言われる。
この中で毛利甲斐守は15日の礼日のため諸大名と登城中で、細川越中守、水野監物と共に仙石伯耆守より浪士引き渡しの申し渡しをうけ、自身が受け取るべきか等子細な打ち合わせを行った。(ちなみにこの日、松平隠岐守は病のため登城を見合わせていた。)そして家老田代要人、物頭原田将監ら総勢200人を泉岳寺に向かわせた。豪雨の中受け渡し場所に待機していると、御徒目付3人が仙石伯耆守邸に変更したことを告げた。これは、吉良の一族特に上杉家が浪士を襲撃する恐れがあったので、面倒を避けるため老中が下したと言われる。仙石伯耆守邸では、4家合わせて1500人の受け取り部隊の中、細川、松平、毛利、水野という順序で浪士が引き渡されて行った。毛利家は、大事をとり搬送中、普通の御預人と同じ扱いで駕籠に錠をし、縄もかけたので庶民から非難を受けた。毛利甲斐守邸に預けられた10名は以下の通り。

岡島八十右衛門...札座勘定奉行.......20石5人...三十八才

吉田沢右衛門....蔵奉行..........13両3人扶持.二十九才

小野寺幸右衛門...部屋住.................二十八才

勝田新左衛門....札座横目.........15石3人... 二十四才

倉橋 伝助 .....中小姓近習、扶持奉行...20石5人...三十四才

杉野十平次.....札座横目.........8両3人....二十八才

村松喜兵衛.....扶持奉行.........20石5人...六十二才

前原 伊助 .....中小姓近習・金奉行....10石3人...四十才

間 新六郎 .....部屋住.................二十三才

武林 唯七 .....馬廻...........15両3人...三十二才












24.ニッカ池(赤穂浪士その二)



一同は藩邸内の長屋に収容された。長屋は往来に面した方には板を打ちつけ外を遮断し、一人ずつ屏風で囲われた。 衣類を改め、軽い食事を与えられて最初の一夜を送った。そして16日に毛利家用人内藤角左衛門から老中稲葉丹後守用人岡田半右衛門 に浪士の取り扱いに対する髪結、たばこ、料紙、扇、医者、毛抜きの使用、火事の場合の対処など子細な伺いをたてた。しかし返書はもらえず、浪士たちは死を覚悟して逃げ隠れしないはずなので、然るべく適当な扱いをすべしと言う指示だけが来た。これにより一人ずつ囲っていた屏風も5人づつとし、食事は二汁五采、昼には茶菓子も供された。そして酒も自由で火鉢も持ち込まれ、太平記等書物も与えられ寝具、行水など気配りの届いた扱いとなり29日には藩主毛利公の接見挨拶も行われた。討ち入り時に軽く負傷した武林 唯七、腫れ物の 前原 伊助 、瘡のできた岡島八十右衛門などの処置も用人から老中へ伺い書を提出し、内科医菅玄理、外科医藤井良菴らによって治療後 快癒した。このように浪士への待遇は諸家と比べても遜色なくむしろ本家萩藩や末家清末藩からの応援など、行き過ぎの感もある。
正月を過ぎても浪士への処断は決まらなかった。庶民は討ち入りを快哉事とはやし、幕府側の室鳩巣らの儒学者たちも前代未聞の忠義と 賞賛した。が荻生徂徠の建議書などにより評定所の論議が決まり武士としての死、切腹が与えられる事になった。
毛利甲斐守邸には2月4日昼九つ半すぎに御徒目付、御小人目付により切腹の奉書が届けられ、追って検使御目付鈴木次郎左衛門、 御使番斎藤治左衛門が到着した。毛利家 家老田代要人、時田権太夫が玄関口で出迎え藩主 毛利甲斐守綱元が玄関で挨拶。使者は、浪士一同の支度を促し介錯人の氏名、年齢を提出させた。その後両人は、切腹の場所を検分し、狭いので大書院の庭に変更させた。そして二汁 七采の食事が運ばれたが、両人は固辞し餅と濃茶に改められた。その間原田将監が浪士の長屋に赴き使者の到来と衣装の支度をし、 整ったことを使者に伝えた。
呼び出しにより一人づつ駕籠に乗せ御手廻り2人、棒突足軽2人を付けて使者の間へ運び御沙汰書の宣告が行われた。その時の順は 岡島、吉田、武林、倉橋 、村松、杉野、勝田、前原、間、小野寺であった。
当初、扇子を持たせて刑を執り行う予定であったが、検使の注意により小脇差しを使用する事に変更された。この当時、切腹は扇子を 腹に突き立てる真似をしてその瞬間に介錯するのが一般的であったが、この時は、栄誉と尊敬のための温情の措置と思われる。 今の午後5時ころ呼び出しの順で始められ午後7時ころに終わっている。ほとんどの浪士が斬首同然の切腹であった。しかし間 新六郎のみ は、突き立てた後20センチも横に引いた文字どうりの切腹を行ったため、検使をはじめ居合わせた人々が驚嘆したと言う。
毛利家は遺骸、遺品についても幕府に子細な指示を求め、高輪の泉岳寺に葬る事が決まった。が間 新六郎の親戚、内藤又助から遺骸 引き取りの願いが出され、翌日許可がおりて築地本願寺に埋葬された。泉岳寺にも墓があるが、これは、供養のための物との事。 討ち入りの後失踪したと言われる
寺坂吉右衛門は83歳まで生きて延享4年に亡くなり、麻布本村町の曹渓寺に埋葬された。泉岳寺の墓は 慶応4年6月に芸州藩御用商人三人が寄進した供養墓との事。
この切腹か行われてからおよそ150年後、藩邸で馬廻役の家に一人の男の子が生まれ、池のほとりの井戸で産湯をつかった。 その子の名は乃木希典。以下は次回........。











26.文七元結(ぶんしちもっとい)


先日、Linksでお世話になっている
高野 孟氏より「面白い本を見つけたので、よければお貸しする。」と言うメ−ルを頂き、十番の外れにある氏の事務におもむき、お借りしてきた。残念ながら氏にお会いする事は出来なかったが、お借りした本は「新撰東京名所図絵」麻布区巻ノ一,二の2冊で発行は明治35年となっているが、一度も手をつけた形跡がなく新品同様なので、恐ろしくなり一度目を通しただけで、大切に保管した。(我が家には、7歳を筆頭に4歳、1.5歳と3人の男の子がいる。)内容は、すばらしいもので町名、寺、の由来から地図、挿し絵まであり、特に挿し絵は麻布関係の本に多用されているようだ。(狸穴坂、氷川神社等、何度も観た事のある絵があった。)そしてこの本でしか書かれていない(と思われる)事がいくつか見つかった。その中の一つが「文七元結(ぶんしちもっとい)の起源地」である。
元結(もっとい)とは、江戸時代髷(まげ)の根元をくくるのに用いたもので、糸、紐もあるがのちに和紙を強く縒って作られた”こより”の長いものが一般的になった。文七とは原料の紙の名とも発案者の名とも言われるが、「新撰東京名所図絵」によると、「武江年表寛文12年の項に麻布永坂下で始めて元結を製す。」とあり”注”に「永坂六本木の手前麻布へ下る坂の下にて。文七元結とて名物の元結を 拵(こしら)えるよし云へり。世事談に。文七と云ふは。元結に拵る紙の印の名なりと云へり。」とある。又、武江説圓にも「永阪、六本木手前麻布へ下る大久保加州候と。大田原山城候の間の阪なり。右坂の下にて。文七元結を製す。文七といふ者拵初るといふにはあらず。 元結に拵る杉原紙の印の名なるよし。」とあり永坂下のあたりで制作された事が記されている。ちなみに落語の文七元結は本所達磨横丁の左官の長兵衛が一人娘”お久”の親孝行でこしらえた大事な金を吾妻橋で身投げしょうとしていた若い男にあげてしまい、それが縁で若い男文七とお久が結ばれ麹町貝坂に文七元結元結の店を出すと言う人情噺で、麻布は登場しない。
ここまで読まれた方は、「恐ろしくなり一度目を通しただけ」の本なのにここまで書けるのかと言う疑問を持たれるであろうが、これは、 恐ろしくなった結果、港区、品川区中の図書館を探し歩いて、やっと同じ物を見つけた為である。(高野孟さんゴメンなさい。) ちなみに私が見つけた物は、麻布2巻に赤坂を足して1冊に製本され睦書房より昭和43年に復刻された本である。






27.有栖川公園



正式な名称を「有栖川の宮記念公園」と言い、昭和9年1月5日高松宮宣仁親王より東京市に下賜され2月に工事が始まり、同年11月17日に開園式が行われた。その広さは10,988坪2合、総工費86,500円あまりで開園当初、敷地内に東京郷土資料仮陳列館も併設されていた。 今は南麻布5丁目だが私の小さい頃、このあたりは盛岡町と言う町名であった。これは公園を含めたこのあたりが南部盛岡藩20万石の 下屋敷があったため。盛岡藩はこの他、上屋敷を外桜田に中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下、三田寺町、木挽町、大崎等に、抱屋敷を大崎、上目黒に、蔵屋敷を芝田町、深川佐賀町に持っていた。上屋敷は江戸初期には幸橋にあり慶長17年(1612年)将軍秀忠も臨邸した。が正保5年(1648年)に上地し、従来中屋敷であった外桜田に移った。当初下屋敷も赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼んだ。明暦2年(1656年)芸州浅野家の分家播州赤穂の浅野匠守麻布下屋敷と相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと。約50年後の元禄15年(1702年)大石内蔵助は赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ」をするが、相対替がなければ麻布が舞台になっていた。この時南部家は麻布に移っているが、坂名だけは残っていた。

盛岡藩(維新時は白石藩と改称)最後の藩主甲斐守利恭は廃藩置県によりこの敷地を手放し、2,3の手を経て明治29年有栖川熾仁親王の邸宅になる。この間、明治4年(廃藩置県)から29年の事はわからないが明治初期麻布は、大名屋敷跡地でお茶、桑の栽培や酪農、放牧が奨励されていたらしい(桑茶令)ので、ここで行われていてもおかしくはない。(後年、これらの事業は失敗し、撤退しているが維新後膨大な数の 大名屋敷が主を失い荒れ地となったので、行政側も苦慮したらしい。)

自ら志願して東征大総督となった(許婚皇女和宮が公武合体政策により将軍家茂正室となった事による?)有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、江戸城に入った。その後麻布に来るまで神田小川町(明治2年4月)、 数寄屋橋(明治3年1月17日)、日比谷(同年12月3日)、芝(明治4年3月22日)、霞ヶ関(同年8月22日)、麹町を経て明治29年麻布盛岡町の屋敷に落ち着いた。しかし、この時すでに熾仁親王は逝去し弟の威仁親王の代となっていた。そして跡取りの栽仁王は早世し、その後威仁親王も病により大正12年7月5日逝去したので有栖川宮家は廃絶となった。が大正天皇はそれを惜しみ、第三皇子光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称高松宮を名乗らせて祭祁を継がせた。(高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母は、有栖川宮家であった。)

公園の南部坂上広場にある熾仁親王騎馬銅像は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部にあったもので、昭和37年東京オリンピックに伴う道路拡張のため当地に台座ごと移された。この銅像は明治36年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設された。 そして原形を製作したのは、
ラグ−サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ−サに師事し、ロ−マ美術学校を1888年に卒業した彫塑家の大熊氏広である。 東京都の管轄だった有栖川公園も、昭和50年4月1日港区に移管された。そして区立麻布テニスコ−ト、同麻布野球場を公園区域に編入し 都立中央図書館施設を含めると総面積67,560uとなり港区立の公園としては、最大の物となった。
周辺には、愛育病院、麻布高校、ドイツ大使館、自治大学などがあり自治大学近辺は終戦まで海軍の監獄があった。また公園に隣接するロ−ン・テニス・クラブは現天皇陛下が結婚前に美智子妃殿下とデ−トされたと言う。
私が小学生の頃、写生や、屋外授業でたびたび訪れ、また友達と釣りや虫捕りにもよく通った、思いで深い公園である。












28.有馬家化け猫騒動


三田小山町辺から専売病院、済生会中央病院、三田国際ビル、都立三田高校のあたりは、明治維新まで久留米藩有馬家21万石の上屋敷であった。この屋敷には名物が四つあり、一つは、「どうでありま(有馬)の水天宮」と言う軽口があったくらい有名な水天宮。今は神田 蠣殻町にあるが、これは維新後久留米藩邸が神田に移転したためで江戸時代に水天宮は小山町の久留米藩邸内にあった。 祭神を尼御前大明神と言い壇ノ浦の合戦で敗れた平家と共に入水した安徳天皇、建礼門院、二位の尼の霊を女官按察使(あぜち)の局が九州久留米地方まで落ち延びて祭った。そして関ヶ原の戦いの戦功で領主となった有馬氏から庇護を受け、文化5年(1808年)十代藩主頼徳のころに江戸藩邸に分霊を祭った。これは当時虎ノ門にあった金毘羅宮の成功を模倣したといわれ、お札や供え物などによる収入は貴重な大名の副収入になった。

2つめは、「火の見やぐら」。
これは八代藩主の時幕命により大名火消を命ぜられ、三田台地に高さ三丈の火の見櫓を組んだ。他家のものは二丈五尺以内であったため日本一と称され、「湯も水も火の見も有馬名が高し」「火の見より今は名高き尼御前」などと詠まれた。 約150年後には、やはり日本一になる東京タワ−がすぐ近くに........。

3つめは、「犬」。
六代藩主則維(のりふさ)は時の将軍綱吉(犬公方)から小犬を拝領し、それ以来藩主の行列には拝領犬を曳きつれ市民から「有馬の曳き犬」と称された。後の水天宮の犬帯は、犬で有名な有馬の水天宮で犬にあやかって安産、多子を祈願して売られたため、もし「有馬の曳き犬」が無かったら、水天宮の犬帯も存在しなかったと思われる。

4つめは本題の化け猫騒動。
芝居の「化け猫」で有名なのは、岡崎、佐賀鍋島と、この有馬家である。この中でもっとも早く劇化されたのは岡崎の猫騒動。これは鶴屋南北の作で「独道中五十三次」と言い文政10年市村座で初演されている。次が佐賀鍋島で瀬川如齏皐の 「花嵯峨猫又双子」。初演は嘉永6年中村座だが鍋島家よりの苦情で町奉行が芝居を中止させた。しかし話は講談に受け継がれ「佐賀の夜嵐」、「佐賀怪猫伝」となった。そして佐賀の化け猫は太平洋戦争中、米軍が飛行機で東京に撒いたの宣伝ビラにも利用された。
最後が有馬家の化猫騒動。これは河竹阿弥の「有馬染相撲浴衣」で初演は明治13年猿若座と新しく、その筋は藩主有馬頼貴が寵愛した側室 「お巻の方」が他の側室の嫉妬で冤罪を被せられそれを苦に自害してしまう。すると「お巻の方」の飼い猫が主人の仇を報いようと奥女中のお仲に乗り移り側室たちを食い殺して火の見櫓にいるのを、有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が退治すると言う筋書きであった。これ以前に風聞として、明和9年、大田南畝の「半日閑話」に有馬公の家臣、物頭の安倍群兵衛が怪しい獣を鉄砲で討ち取ったとあり、同じ頃の随筆「黒甜鎖語」にも有馬家では夜な夜な怪異があったが、番犬を置くとおさまるとあり、また怪異とは狐のたたりであると岸根肥前守(寛政10年の町奉行)「耳袋」にもある。これは松平丹波守の家伝の秘薬に「手ひかず」という塗り薬がありその製法を有馬の殿様が所望し遂に処方を伝授された。それは生きた狐を煮込み煎じ詰めると言う製法で、多くの狐が殺された。そのため怨んだ狐が怪をなしたが、番犬により怪が止んだ。とある。「半日閑話」の安倍群兵衛とは誤記で犬上群兵衛であるとも言われ、犬上群兵衛は久留米藩の柔術師範であり麻布狸穴に道場を開いていて、実在した人物である。が晩年粗暴のため閉門中に死去し犬上家は取り潰される。後日血縁の者が犬上郡次郎を名乗り、先代の怪猫退治をまことしやかに言い立て館林藩に仕官してしまった。そして八丁堀に道場まで開くが、やはり身持ちが悪く、文久2年上州の博徒、竹居の安五郎の子分に惨殺された。
このようにだいぶ芝居の下地となる風聞がそろってきたが、最後に決定的な事件(事故?)が.....。
「街談文々集要」文化元年甲7月28日の条に神田にある松平讃岐守の上屋敷で火の見櫓の番人が櫓より落ちて死亡した。死体を改めると何かに引っかかれたような傷が無数にあり、腹部も破れてひどい有り様だったので世間では天狗か物の怪の仕業だとうわさした。またこの屋敷の近くにある旗本大森家の飼い猫が変化して人を脅かすので、松平讃岐守邸の事件もこの猫の仕業だと言う評判が立った。こうなると 風聞が伝わるうちに、怪猫、火の見櫓、大名屋敷という部分が強調され有馬家と結びつくのに、それほど時間はかからなかったと思われる。ちなみに松平讃岐守邸の事件の真相は、邸の者によると、火の見櫓の端に腰掛けていた番人が誤って転落し高所からひさしなどに当たりながら落ちたので、惨状になった。物の怪とはまったく関係ない。との事。
これらの化け猫話は、松平を除く有馬、鍋島共に九州の大名で、両家の因縁は深い。鍋島家は主家の龍造寺家を乗っ取る時の恨み、また有馬家は藩主有馬晴信が死罪になって以降のキリシタン信者への弾圧など、両家に遺恨を持つものからの風聞だとしてもおかしくはないと思われる。この項の写真は元有馬家上屋敷(現港区立赤羽小学校)に現存する「猫塚」(学校職員に尋ねたが由来は不明。)と米軍が飛行機で東京に撒いた宣伝ビラである。
最後に江戸時代水天宮の川柳を紹介。

赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波

商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり

人はみな 尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波

湯も水も火の見も有馬 名がたかし

火の見より 今は名高き 尼御前


関連項目
160.続・猫塚−荷風の見た猫塚








29.水野十郎左衛門


水野十郎左衛門と言えば、旗本奴の頭で幡髄院長兵衛の敵役と言った所だろうが実際彼が切腹したのは、長兵衛殺害から十数年もたってからだと言われているので長兵衛殺害の喧嘩両成敗からのものではなく、素行不良の”とがめだて”からだと思われる。戦国末期の荒くれ大名水野勝成を祖父に持つ十郎左衛門の最後はあざやかだったと言う。蜂須賀邸で切腹のおり、貞宗の短刀をおしいだたき懐紙をといておもむろに腹に突き立て5寸ほど引いてから短刀を三宝に戻し、首を討てと言ったという。十郎左衛門に正室はなく妾腹の男子が父と共に誅され、家は断絶した。が元禄元年7月に赦免され弟の忠丘が水野十郎左衛門を名乗り小普請組になり家を再興した。その際兄の菩提を弔うため忠丘は三田の功運寺に墓を建て以降水野家の菩提寺とした。再興後拝領した屋敷は本所にあったが、文化9年、麻布新町(現東麻布3丁目)に移った。この屋敷の一部は元、多聞(おかど)伝八郎の屋敷でこの人物は、元禄14年浅野匠頭が江戸城中で刃傷した直後、審問の上同情的な処分に努力し、また切腹にも立ち会った多聞伝八郎の子孫である。(ちなみに刃傷事件当時の多聞伝八郎の屋敷は四番町との事。)



30.麻布幼稚園



このホ−ムペ−ジを通じて知己を得ることができた「
東急ケ−ブルテレビジョン」取締役技師長の奥津 尚武氏から氏の出られた麻布幼稚園の卒業アルバムをお借りする事が出来た。表紙には昭和18年3月とあり太平洋戦争中にもかかわらず非常に丁寧な作りで、また保存も氏の性格がうかがえるような大変きれいな状態である。表紙の日付の下にこの園のシンボルマ−クが描かれているが、これを見て非常に驚いた。円の中に白い鳩が2羽向かい合っていてその上に「幼」と記され全体ブル−で塗ってある。これは私の出た南山幼稚園とデザインがまったく同じである。(南山は色がエンジという違いだけ。)早速、図書館から同園の50周年記念誌「あざぶ」を借りて調べると、元は同じ幼稚園であった事がわかった。以下はその概要。

・明治26年6月に私立麻布幼稚園として麻布仲ノ町に設立。
・明治32年3月東鳥居坂8番地に移転。
・明治40年3月廃園。
・明治40年4月飯倉6丁目徳川侯爵邸内に東京市麻布区教育会付属私立麻布幼稚園設立。
・明治45年6月笄町に移転。
・大正2年3月廃園。
・大正2年4月麻布区宮村町に東京市麻布幼稚園設立。
・昭和9年4月麻布麻中、南山幼稚園に分割。
・昭和9年9月文部大臣視察。
・昭和10年1月東京市麻布幼稚園に改称。
・昭和14年7月東京市長視察。
・昭和18年6月都制施行により東京都麻布区立麻布幼稚園となる。
・昭和19年4月戦時非常措置により休園。
・昭和21年5月再開園。
・昭和22年4月東京都港区立麻布幼稚園と改称。
・昭和29年12月開園20周年記念。
・昭和40年3月開園30周年記念式。
・昭和49年5月開園40周年記念式。
・昭和59年5月園舎改築。
・昭和61年5月開園50周年記念式。

この中で大正2年4月に東京市麻布幼稚園が設立され、昭和9年4月麻布麻中、南山幼稚園に分割されるまで宮村町にあった事は 初めて知った。おそらく今の麻布保育園の敷地だろうと思われ、私が生まれ育った場所から200メ−トルほどしか離れていない。「あざぶ」に掲載されている園関係者の話によると、「昭和9年以前の写真等がかなりあるが、これは分割される時それまでの物をすべて麻布幼稚園に持ってきたためで、南山幼稚園には分割以前の資料はないとの事。また分割にさいして、園の用品は共同で購入されたためほぼ同じ物あった。開園当初の園に通ったのはいわゆる”お屋敷の子”達で商店の子は少なかったと言う。そのためじいや、ばあや、書生用の付き添いの部屋が用意されていた。」と記されている。「あざぶ」の中(65ペ-ジ)にお借りした卒業アルバムと同じ写真が多数掲載されており、あの当時の資料としてこのアルバムがいかに貴重なものかがうかがえ、改めて、このような貴重な資料をお借りできた事を奥津さんに感謝している。
(こちらをクリックするとアルバムの内容へ。)









31.お竹如来

お竹は両親が出羽の国(山形県)の湯殿山に願をかけて授かった子で、成長の後江戸大伝馬町、佐久間勘解由の奉公人になる。 生来慈悲深いお竹は、朝晩の自分の食事を乞食や犬猫にまで与え自らは水盤のかどに網を置いてそこに溜まった残飯、切りくず などを食べ常に念仏を唱えた。この徳行により死後「大日如来」になったと言われ又、武蔵の国比企郡(埼玉県熊谷市)の乗蓮と言う行者が湯殿山にこもり生き仏が拝みたいと願をかけると、夢のお告げでお竹を知り羽黒山の玄良坊と言う山伏と江戸にのぼりお竹を見つけた。が大日如来の化身であることが知れると、紫雲と共にお竹は昇天していったと言う。お竹の墓は北区赤羽の善徳寺にあり延宝8年(1680年)5月19日に亡くなったとある。またお竹が使ったと言われる水盤(流し板)が東麻布1丁目の心光院に伝わり、この板はお竹の死後、 5代将軍綱吉の母桂昌院が寄進したと言う三つ葉葵の紋入の蒔絵のある黒漆塗りの箱におさめられ現存する。 当時このお竹如来は、浮世絵、歌舞伎、俳句にも表わされ庶民の人気が偲ばれる。お竹を題材にした作品を以下に。
滝沢馬琴....免園小説
式亭三馬....お竹大日忠孝鑑
十返舎一九...お竹大日絵解
小林一茶....句、「雀子やお竹如来の流し元」
歌川国芳....お竹如来昇天の図











32.黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)



鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏?)とよばれた長者が住んでいた。名の由来は幼名を金王丸と言ったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存する。また白金長者は、今の白金自然教育園付近に住み、江戸時代には、元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存する。この二つの長者は、近隣であったため、交流があったと思われその有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来である。
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。と言われる。現在は、笄川(龍川)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまったが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいる。











33.麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)


笄橋は長者伝説の他に源氏由来説もある。平将門が関東で乱を起こした時(天慶の乱)、六孫王源経基はその状況を天皇に直訴するため京都へ向かう途中、笄橋にさしかかった。この頃の川(龍川)は水量も多く大きな流れだったので、この橋を通るしかなかったが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていた。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽った。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができた。これにより以後この橋を経基橋と呼んだが、後に源頼義が先祖の名であるためはばかり笄橋と改称させたと言われる。この他にも麻布と源氏を結び付ける伝説は多く、源経基はこの他
「一本松」に衣をかけたと言われまた「氷川神社」を勧進したとも言われる。経基の国司としての居城は埼玉県鴻巣に城址が現存するが、麻布にも彼に関わる何か(荘園、支城?)のような物があったのでは、と言う人もいる。また彼の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となった。その時(長元元年10月)坂東の兵を集めたのが麻布であった。また近辺の三田にも源頼光の家来で四天王の一人、大江山の鬼退治で有名な「渡辺 綱」の伝説がある。綱が産湯を使った「産湯の井」は、オ−ストラリア大使館内に、出生地の綱生山当光寺、綱坂、綱の手引き坂、綱が馬を得た土器(かわらけ)坂、また三田綱町と言う住居表示にも残されている。
江戸っ子の綱に対する人気を表わす川柳を以下に紹介。


名からして江戸っ子らしい源氏綱

あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂

江戸っ子に してはと綱は 褒められる

氏神は八幡と綱申し上げ












34.森元三座


明治維新の後、森元町内に森本座、高砂座、開盛座のいわゆる「森元三座」と呼ばれた劇場ができた。 これらの劇場は、城南地域に芝居小屋が無かった事から、近隣の盛り場「飯倉四辻土器町」の人出を見込んで、開場した。 どん帳芝居と称して、引き幕廻り舞台をゆるされないにもかかわらず、当初は大繁盛であったと言う。当時、歌舞伎の桟敷で一人84銭であるのに、この三座は8銭と格安であったため山の手以外に下町からも客が集まった。また内容も当初は茶番のような物であったが、のちに 有名な役者も名を変えて出演した。しかし適地でなかったようで、明治35年(1902年)には三座とも跡形もなかったと言われる。











35.十番稲荷神社


十番稲荷神社は「末広稲荷」と、永坂にあった「竹長稲荷」が戦災により合併して出来た神社。 「末広稲荷」は慶長年間に創建され戦前は現在の「ハラストア−」の場所にあった。社前に一本の柳の樹があったので、はじめ社号を「青柳神社」と称した。再校江戸砂子によると「この柳樹枝葉さがりて梢の繁茂しているところより、村民だれ言うとなく末広の木と呼び、末広稲荷と呼ぶようになった。」とある。明治6年7月5日村社に指定され明治24年4月、建物を権現造りに改め、社号を末広稲荷神社とした。氏子は坂下町と網代町で700戸あまりで、祭神は倉稲魂命、市杵島姫命、湍津姫命、日本武尊で大祭は9/17、9/18であった。関東大震災後の復興記念として東郷平八郎が直筆の社号軸を奉納し、昭和21年の空襲で社屋は全焼したがこの掛け軸は現存する。

戦後の区画整理で永坂にあった「竹長稲荷」は十番稲荷神社に合併した。和銅年間に創建されたこの神社はかつて稗田神社と呼ばれ?、別に「竹千代稲荷」と称した。これは竹千代が丘(現東洋英和近辺)という地名から付けられた名で和銅5年(712年)に稲荷勧請し「竹千代稲荷」と名づけたとも言われる。弘安2年(1279年)社殿を再興し、寛永元年(1624年)山下に移り、社名が徳川将軍家の幼名と同じことから避けられ、「竹長(町)稲荷」とした。氏子は永坂町、新網町で、祭神が「末広稲荷」と同じであったため、昭和20年合祀された。 また別説に弘仁13年(822年)に慈覚大師(円仁)ゆかりの神鏡をもって創建したとも言われるが、元稗田神社を称する神社は区内の御田八幡を始め大田区にも三社あり、特定する事は難しいと言われる。また改装前の十番稲荷の鳥居にはこの地で育ったエノケンこと「榎本健一」の名が大きく刻まれていた。











36.スペイン村(和朗フラット)


新一ノ橋から永坂を登り切り、飯倉片町交差点の少し手前、右手の路地を少し入ったところに古びてはいるが、しゃれた建物達がある。調べてみると「スペイン村」と言う名があった。 昭和10年(1935年)ころ、アメリカ帰りの農学者上田文三郎が農業視察で息子の万茂とアメリカ西海岸の コロニアル・スタイルの建物に感銘をうけて、親子で設計した。そして地元の大工と協力して建てたアパ−トは 窓の形がすべて異なっていて、そのスタイルから「スペイン村」と呼ばれた。当時から銀座に勤めるホステス、芸能人などに人気が あったが、現在もデザイナ−、コピ−ライタ−などに人気があると言う。













37.祥雲山竜沢寺(麻布区役所跡)


宮村町の子供たちが南山小学校、城南中学(六本木中学)へ通学する時に通る道の途中にあるお寺。
竜沢寺は寛永3年(1626年)2月15日飯倉片町に開山白容伝清和尚が太田原備前守の協力で建立した。その後明暦の大火で焼失したので 寛文元年(1662年)麻布宮村町に移った。時代は移り明治になるとここに麻布区の区役所が置かれた。寺地内にある港区教育委員会の碑によると「麻布区役所跡、近代地方自治発祥。江戸が東京と改称されてからその行政区画の変遷は繁雑を極めた。明治11年7月23日、郡・区・町・村の編成法が発布された。同年11月2日には芝、麻布、赤坂などの15区と荏原などの6郷が置かれて町・村・区会を開設することになった。地方自治史上画期的なことであった。これによって明治6年(1873年)12月以来竜沢寺の堂宇を借りて設置された第二大区十二小区の区役所は明治11年4月から麻布区役所として開庁し、初代区長には前田利充が任命された。なお、芝区、麻布区、赤坂区は昭和23年3月15日統合され港区になった。」とある。

境内は680坪を有し曹洞宗本山永平寺に属した禅宗であり、旅僧奇端の石地蔵尊が安置してあった。この地蔵は江戸時代に一人の旅僧が来て門前で子供たちに仏号を教え唱えて共に遊んだ。しばらくしてその子供たちが仏の教えを喜び、石像を造り安置供養した。旅僧は再び訪れることは無かったが、人々は旅僧が地蔵尊の化身だったとして、子供の諸病にお参りしたと言う。

昭和に入り11年に寺の建替えを行った時、屋根の瓦の下から大きな「青大将」が出てきたので、鳶も恐ろしがって仕事が手に付かない。近所の「蛇屋」に頼んだが断られ、上野にまで足を伸ばして「蛇の黒焼き屋」にも頼んだがやはり断られた。途方に暮れていると、やっと芝の蛇屋が引き受けてくれて、翌朝8時に来ることになった。しかし翌朝、時間になっても蛇屋は現れず、9時頃にやっと現れて、「家内に相談したところ、お寺の主のような蛇を殺したら、必ず「祟り」があるのでやめてくれ、どうしてもと言うなら離婚する。と猛反対されたので申し訳ないが勘弁してくれ。」と断られてしまった。話が振り出しに戻って困っていると、近所の蛇のとても好きなひとが現われ捕まえてくれることになった。屋根瓦をはがし2匹ほどは逃げたが、7匹ほど捕獲した。その後この人はこれらの蛇を蒲焼きで食べたと言われ、寺の蛇騒動は落着した。

前出の石地蔵尊は戦争中、焼夷弾の直撃を受けて惜しくも消失した。そしてこれまで過去300年間の間、近隣の人々から雲を呼ぶから絶対に焼けないと信じられた竜沢寺自体も昭和20年5月25日の空襲で焼失した。その際住職は不在であったが、住職の妻が本尊と過去帳4冊を持って南山小学校に避難し、寺宝は戦災を免れ現在に至る。











38.坊主湯


今の子供たちがまったくしなくなったコミュニケ−ションの一つに銭湯がある。私の小学生位の頃は、学校が終わって公園で遊んだあと内風呂がある子も無い子も、連れ立って銭湯に行った。宮村町界隈(と言うより小学生が行ける範囲)には、麻布十番に
越の湯(十番温泉)、吉野湯(現麻布病院)、金春湯(山元町)などがあり中でも、越の湯は一番通った。黒いお湯なので潜水艦のおもちゃを沈めるとどこに行ったかわらなくなり、足で探す。シャンプ−の空き容器にお湯を入れて、女湯に飛ばすと悲鳴が聞こえた。(ただしこの遊びは、番台に恐い主人ではなく、おかみさんなどの場合のみ行われた。)またひどいやつになると、頭を洗っている友人の後ろに忍び寄り、放尿したり、湯から上がるとロッカ−の鍵隠しをして遊んだりもした。こうして1〜2時間遊んで、帰りはおもちゃ屋兼駄菓子屋のしみずでプラモデルの下見をしながら腰に手を当ててラムネかチェリオを飲み干す。こんな話を先日宮村町のタバコ屋渡辺さんにお邪魔して話していると昔宮村町にも日の出湯と言う銭湯があり、遊びに行くとよく湯に入れてもらったとご主人に伺った。調べると、近代沿革図集麻布、六本木編昭和8年の地図に今の元麻布3-6-20あたりに日の出湯が載っている。また「十番わがふるさと」によると日ヶ窪の栴檀林(現駒澤大学)寮舎の生徒(お坊さんの見習)がその当時宮下町にあった朝日湯で衣装を代えて町方に遊びに行き、寮に帰る時また来て法衣に着替えた。これは朝日湯が湯には入らなくても更衣室的な設備をしたためで地元の人から「坊主湯」と言われたとある。その他に近代沿革図集昭和8年の地図に麻布界隈では 鶴の湯(一本松町)、東湯(北新門前町)、花湯(森元町)、和倉温泉(飯倉)、野沢湯(飯倉)、天満湯(飯倉)、一の橋浴場(一の橋)、大正湯(市兵衛町)、人参湯(今井町)、桜湯(桜田町)、日の出湯(龍土町)、朝日湯(霞町)、みどり湯(三軒家町)東湯(東町)、亀の湯(新広尾町)、竹の湯(竹谷町)、朝日湯(広尾町)、金春湯(田島町)などが見える。










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