![]() | 1. | 赤いくつ | ![]() | 2. | 防空壕 | ![]() | 3. | くわがた | ![]() | 4. | 番外七不思議 | ![]() | 5. | 一本松 | ![]() | 6. | 柳の井戸 | ![]() | 7. | たぬきそば | ![]() | 8. | 氷川神社 | ![]() | 9. | しみず ”ボタン”屋 | ![]() | 10. | はらきんの釣り堀 | ![]() | 11. | 麻布山善福寺(其の一) | ![]() | 12. | わんわんはらっぱ | ![]() | 13. | ベアトの麻布 | ![]() | 14. | 浅布原の首塚 | ![]() | 15. | 釜無し横丁 | ![]() | 16. | 天祖神社 | ![]() | 17. | 三田小山町 | ![]() | 18. | 桜田神社 | ![]() | 19. | ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐) | ![]() | 20. | 鷹石(烏石) | ![]() | 21. | 我善坊の猫又 | ![]() | 22. | 麻布のショ−ン・コネリ− | ![]() | 23. | ラグ−サ・お玉 |
1.赤いくつ
麻布十番パティオのきみちゃん像 知らなかったと言うより、気がつかなかったのだろうが、夏の十番祭りの時”雪”がある広場(パティオ)に立っている銅像。 童謡”赤い靴”のモデル”きみちゃん”のものなのだそうだ。本名岩崎きみ、歌の中では異人さんに連れられて行ったことになっているが、実際は今の十番稲荷の辺にあった鳥居坂教会の孤児院で亡くなっていた。
きみちゃんは、1902年(明治35年)7月15日静岡県清水市宮加三で生まれ、母のかよさんと共に開拓団として北海道に渡る。しかしかよさんに再婚話が持ち上がり、また当時の開拓地の想像を絶する厳しさ等からきみちゃんが3才の時に、アメリカ人宣教師チャ−ルス・ヒュエット夫妻の養女になった。しかしヒュエット夫妻が帰国する事になった時、結核を発病した彼女は、長い船旅ができずやむなく麻布の永坂教会孤児院に預けられ、明治44年9月15日の夜、9才で亡くなったそうだ。
永坂教会孤児院は、明治26年(1893年)東洋英和女学校の関係者により貧しい人の為に開かれた日曜学校が基になり、明治27年(1894年)には、十番の貧困者の女児が売られようとするのを憐れみ、日曜学校の人々が他の不幸な子供とともに引き取ったことから、明治29年(1896年)永坂孤女院が設立され、明治37年(1904年)には永坂孤児院となり、明治42年(1909年)には永坂50番地にホ−ムが設立された。そして大正12年まで現在の「十番稲荷神社」のある場所で不幸な子供たちを収容し続けた。歌は、入植に失敗し新しい夫、鈴木志郎とともに札幌に戻った後、夫が「北鳴新報」という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃勤めていた野口雨情と親交を持つようになった、かよさんが話のつれづれに「きみちゃん」の事を雨情に話し、そのイメ−ジをもとに雨情が1921年(大正10年)に詩を作り、翌11年に本居長世が曲をつけた。この曲を本居の幼い娘たちが遊びの中で口ずさんでいたものが、いつのまにか広がったと言われる。 歌の中ではきみちゃんは、横浜から船にのって行ったことになっているが、これはかよさんは亡くなるまで、きみちゃんが8才で亡くなった事を知らずアメリカで元気に暮らしていると思っていたためである。
「赤い靴」の女の子のモデルが明らかになったのは、麻布十番商店街振興組合のパンフレットによると、「昭和48年11月の北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという婦人の投稿記事がきっかけでした。(野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会った事も無い私の姉です。)この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんが執念にも似た熱意で追跡していったのです。菊池寛さんは5年余りの歳月をかけて赤い靴の女の子の実像を求め、女の子の義妹である、そのさんの母親の出身地、静岡県清水市をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、野口雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京ついにはアメリカまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し赤い靴をはいていた女の子が実在していたことを、つきとめたのです。」とある。 銅像は、このような不幸を繰り返さないため、十番商店街の人たちによって1989年2月28日に作られたとの事。
<以下は読売新聞1998年7/14夕刊>
銅像が建ったその日に、像のすぐ側で洋品店を経営する山本さん(56歳)が、像の足元の台座に18円が置いてあるのを見つけた。誰が置いたのかわからないが翌日、気になって見に行くとやはり小銭が置かれていた。その後も不思議な寄付は続き累計が58円になった時、山本さんが試しにガラスの器を置くと、今度はその中にお金が入った。小学生がポケットの小銭を入れたり、買い物帰りの女性がお釣りを置いたり寄金は絶える事無く、翌90年3月には30万円に達した。山本さんは「きみちゃんのように恵まれない子供たちのために使ってもらおう」と考え、全額をユニセフの寄付した。これを機に、鉄製の募金箱を置いて「きみちゃんチャリティ−」と名づけた。商店街も夏祭りの収益金を寄付するなどして毎年50万円前後が集まった。今年3月まで9年間の総額は515万円。うち70万円が阪神大震災の義援金に使われたほかは、すべてユニセフに送られた。山本さんが調べたところでは、かよさんは1948年(昭和23年)「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で亡くなった。大切な娘を手放した事を最後まで悔やんでいたと言う。「赤い靴」の像は、清水市、かよさんが入植した北海道留寿都(るすつ)村、きみちゃんが米国へ渡るはずだった港のある横浜市にそれぞれ作られている。
きみちゃんについての詳細な情報が掲載されている麻布十番未知案内
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2.防空壕第2次世界大戦末期(昭和19年春ころ)、本土決戦を唱えた軍部は麻布の地形に目をつけ、海軍陸戦1個大隊(450名)を派遣した。 この大隊は、南山小学校を兵舎にして壕堀を始めた。「初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の裏の崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方から掘り出し、中で二又にわかれ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約6割ぐらいで、完成する前に終戦になってしまった。 壕のはば2米ぐらいで、両壁はコンクリ−トブロックで張り詰め、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレ−ルが敷かれてあった。」と”十番わがふるさと”にあり、防空壕と言うよりは、地下要塞のようなものにするつもりだったのだろうか。もう少し戦争が長引けば、この辺も激戦地になっていたのかもしれない。
続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
170.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−
171.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
172.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−
173.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集−
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3.くわがた小学生の頃、夏の楽しみは虫捕りだった。寺や屋敷が多く、昔から原生している木もわりと残っていたので、昆虫、特に甲虫が多かった。カミキリムシ、カナブン、玉虫、中でも”くわがた”を捕るのが一番面白かった。と言ってもそうどこにでもいたと言う訳じゃなく、まつたけのように、先輩から秘密に言い伝えられてきた”特定の木”にしかいなかった。 今でも覚えているのは、がま池の横、麻布山の墓地、有栖川公園、本光寺、麻布高校横、など。早朝に捕りに行く事が多かったが、不思議な事に秘密のはずの木 で先客に先を越される事も多く、次第にエスカレ−トして夜明け前に家を出たこともあった。
大体墓とか、池のほとりとか、昼間でも静かな所が多かったのでとても恐かったが、いっぱい捕れた時の事などを頭に描きながら歌など唄い、 怖さを振り払っていた。特にまだ夜も明けきらない早朝のがま池は怖く、し〜んと静まりかえった周囲の静寂が池の水面から何かが跳ねる音で破られると、カッパっ?大ガマっ?っとすぐにでも逃げ帰りたい衝動に駆られた。 そしてやっと木の側まで来ると、帰りがけの友達に会う。当時虫かごなどを持つのは野暮な素人と思っていっぱしの捕獲者を気取っていた私たちは、 クワガタを捕獲しても手に数匹を持ったままとか、ズボンのポケットに押し込んだりして帰った。 友人のその手には大きなクワガタが............またやられた。
当時、近辺の子供たちはクワガタを特殊な呼び方で呼んでいた。オスのノコギリクワガタを「ゲンジ」、こくわがた、ひらたクワガタなどを「ヘイケ」と呼び、 メスはすべて「メンタ」であった。これは東北地方の方言に似ているので、その地方出身の親を持つ子供が言い始めたのかもしれない。しかしメンタとは呼ぶが、オンタとは言わなかった。 また大型のものは必ず「おばけ」の冠称をつけ「おばけゲンジ」などと呼び、そのグレードを友達と競った。
ある夏に「おばけメンタ」を捕獲した 私は得意になって友人に見せびらかしたが、だれもその「おばけメンタ」以上のメスを捕獲した者はいなかった。そしてずっと後年になって、あれはもしかしたらオオクワガタのメスだったのでは? と思ったが当時はオオクワガタの知識など誰も持ち合わせていなかった。
またある日、活発に活動する夜間を狙って近所の本光寺境内に行き、多くのカミキリ虫に混ざって少し大きめな黒い姿を見つけたので急いで捕まえた。すると感触が甲虫のものではなくフニャッとして柔らかい。 急いで手の中を確認すると、なんと大きなゴキブリであった。そして瞬時にギャ〜!っと悲鳴を上げて投げ捨てたが、その時の感触がこの歳になっても忘れられず、私は現在もゴキブリが大嫌いである。
そんなクワガタ捕りも、真冬でも半ズボンで遊び回ったのをぱったりとやめ真夏に長ズボンをはくようになった中学生1年となると「もう、子供じゃないんだから」っと妙に冷めてしまい、それ以来 一度も行っていない。しかし10年ほど前の真夏、酔った勢いで当時の木を訪れた友人がいた。この話はブログコーナーに「本当にあった怖い話A 呼ばれた人」として掲載した「実話」である。
こんな事を書いていると、大変な年寄りだと思われるだろうが、これは昭和40年代半ばごろの話で、ちなみに私は、東京タワ−と同じ歳である。(やっぱり、おやじか(T_T))
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昭和期の宮村町近辺クワガタ生息地図
4.番外麻布七不思議元来七不思議などと言うものは、七つと決まったものではなく”沢山”と言う意味合いの物なのだろう。麻布七不思議もどれを七つに入れるかは、人によって異なるようだ。 以下は、七不思議の項以外の、いくつか。
長坂の脚気石
江戸の頃、永坂の坂上にあった後藤家門前に”脚気石(かっけいし)”と呼ばれる石があった。塩を供えて願いをすると、足の病に効能があり”かなめ石”とも呼ばれ評判を取った。道の真ん中にあり、通行の邪魔だと取り除こうとしたが、氷山の一角ではないが根が深く、びくともしなかった。 明治になり、露出した上部は取り除かれたが、果てしなく大きな”根”はいまだに土中にあると言う。広尾のおくりばやし
良く晴れた秋の月夜、広尾ガ原あたりを歩いていると、どこからともなく”囃子”が聞こえてくるが、近くなったり、遠くなったりしてどこから聞こえるのか、わからなかったと言う。狐しるこ
相模殿橋(四ノ橋)のそばで、尾張屋藤兵衛と言うものがしるこ屋を商っていた。そこに時々狐が化けて買いに来たので、評判となり大いに繁盛したという。尾張屋はそれを元手に京橋三十間堀に移転した。狸穴の狸そば
狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があった。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したという。名の起こりは、徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀し たことから始まったという。狸を葬った狸塚は広尾にあったとも言われるが、狸橋の由来もこのことから起こったのかは、不明。
この他にも「続・麻布の名所今昔」によると、27もの不思議が...............。
・関連記事
・麻布七不思議
・むかし,むかし
・麻布七不思議の定説探し
・麻布の異石
5.一本松暗闇坂、大黒坂、狸坂を登り切った合流点にある松の木。この木のあたりから上のなだらかな坂を一本松坂という。
一本松
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもある。有名なものでは、源経基がこのそばの民家に宿を求め 翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたと言われる。 また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだと言うもの。 その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸の羽衣の松、など数々の話がある。
現在の松は、3回目の植えつぎで、残されたものであるとの事であるがそれ以上の植継ぎという説もある。
小野篁説では、京都から松乃宮様という方が下ってきて、この松の下で亡くなり、介抱をした小野篁が衣冠と遺体を埋め、松の木を植えた。 木造の如意輪観音を安置した。小野某の死後この観音様は現在隣の長伝寺に移されたと伝えている。
★文政町方書上−麻布一本松町〜往古当所へ松の宮様と称し奉り候御方京都より御下向これあり、暫くお足を留められ候に終に薨御あそばされ候につき 、かねて御介抱され候小野姓の何某御衣冠とも当時の場所に葬り、お墓の印に植えられ候松ゆえ冠の松と唱え候由。 右傍に草堂を結び如意輪観音の木像を安置しお跡を弔い申され候ところ、終焉の後、年代知れず、観音は同所長伝寺へ移し、 跡へは松の守りに番人差し置き候由。観音は、およそ丈八寸位の座像にて、智証大師の作の由。松の儀は、古来一葉ゆえ一本松 と呼び替え候や、明和九辰年焼失致し植え継ぎ候えども、おいおい一葉に相成り申し候。今は氷川神木の由申し伝え高さ三丈六尺八寸、 枝東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺八寸、北へ一丈六尺三寸、根廻りにて五尺八寸これあり、右へ長さ一丈、幅八尺四方の 駒寄せ致し置き、咳の病人平癒の願掛け致し、成就の上は竹の筒へ醴を入れ納め候由に御座候。〜★東京名所図会−一松山長伝寺同寺に安置せる観音の木像あり。伝云ふ往昔一本松の枯死したるの際。其の樹皮朽蝕剥落して木心僅かに存せるもの七八寸。 其の状観音の立像に類せるより時人之を祀れるものなりと。其傍に一面の石碑あり。丈二尺五寸。幅一尺許り三梵字を刻せり弥陀。観音。 勢至の佛菩薩の名號なりとぞ。右方に延文3(1358)年戊戌三月吉日と刻せり。とある。 また、狸坂と暗闇座かを挟んだ広大な土地が江戸初期の萬治二(1659)年、幕命によって芝増上寺の隠居地になるまで、このあたりは 麻布氷川神社の社領であったといわれる。これにより一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれる。また、源経基が 平の将門の乱により京に逃げ帰る過程として笄橋を渡って一本松にいたりそこで宿を求めたという説も残されており、笄橋伝説、 一本松伝説の発祥の元となっている。
別説続江戸砂子に天正年間(1573〜1593年)の話として、嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。とあり、呪いの松とも呼ばれたという。
さらに、
★麻布区史首塚−一本松増上寺隠居所の辺で、関ヶ原役に岐阜より到着せる多数の首級を埋めた處である。★文政町方書上−麻布一本松町〜前書一本松の儀、首塚とも申し伝え候えども、この儀は相分かり申さず候。〜とあり、慶長5(1600)年8月に関ヶ原の戦の前哨戦として行われた岐阜城攻めの首を、江戸城の徳川家康が検分後、このあたりに 埋めたという説から家康手植え・首塚説なども伝わるが、これには異説もありもう少し南側の西町近辺とする説もある。
江戸名所図会 麻布一本松
また、六本木の地名発祥の一説には、平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。六本木あたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、 榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、 ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。 そしてこのあたりを六本木と言うようになったという。ともある。
元禄15(1702)年の赤穂事件で討ち取られた吉良上野介は、浅野内匠頭切腹後に鍛冶橋から 本所へと幕命により転居されることとなる。その本所屋敷改装中の仮寓先を定説では上杉家高輪屋敷としているが、 麻布区史は、吉良家一本松邸では?という疑問を投げかけており、その一本松吉良邸の合った場所を「府内往還沿革図書」を出典として 善福寺北方、本善時・徳正寺・大法寺に 取り囲まれた場所としている。またほぼ同時期の元禄16(1703)年に一本松では南部家などとも縁の深い幕府表絵師 「麻布一本松狩野家」が「花下遊楽図」(国宝)の筆者、狩野長信の三男・休円清信を祖として誕生する。
また江戸期の書籍「諸家随筆集」では、当年(寛政10年(1798年))東武七奇の一つとして、麻布一本松水茶や婆々九十二歳にて、名はかめ、6月朔日、男子を産、其子生れ落てより物言。とあり得ない話を記しているが、一本松横にあった茶店「ふじ岡」のことであろうか。
そして樹とは直接関係はないが、太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦が叫ばれ、麻布山も巨大な地下壕が建設されていた。 この地下壕の宮村町−麻布山善福寺を結ぶトンネルがこの松の下あたりを通っていたことが地元の目撃情報などにより明らかとなっている。 詳細はこちらをどうぞ。
またさらに麻布区史では、このあたりが古墳であったのでは?と述べているが区史が執筆された昭和初期にはその痕跡をとどめないとも書かれている。 しかし、この近辺では未完成の石器などが出土しており近辺の石器の製作所跡との説もある。
これらから、
一本松 ・源経基止宿説など諸説が現在も伝わっていて、古来より大切にされてきたことが伺える。
・麻布氷川神社ご神木説
・呪いの松説
・松の宮埋葬説
・小野篁植樹説
・徳川家康植樹説
・首塚説
・秋月の羽衣の松説
・甘酒快癒伝説
・塚の印説
・古墳説
松樹の根元の碑(昭和38年一本松・西町町会建立)によると、江戸砂子によればとある。また、碑の最後には、
天慶2年西紀939年ごろ
六孫源経基平将門を征服し
ての帰途此所に来り民家に
宿す 宿の主粟餃を柏の葉
に盛り**翌日出立の時
に京家の冠装束を松の木に
かけて行ったので冠の松と
云い又一本松とも云う
注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継とこの樹が焼失により2回植継がれていることが書かれている。しかし、十番未知案内サイトの解説によると「明治9辰年」 は誤り(明治9年は辰ではなく子)で「明和9辰年」の誤記ではと指摘している。調べてみると確かに明和九(1772)年2月29日 には行人坂大火があり麻布も広範囲に罹災しているのでこちらの説の方が説得力があると思われる。
昭和20年四月又焼失に付き植継追記:文政町方書上を 再読してみると「明和九辰年焼失」とはっきり書かれていました。文政町方書上は町年寄り・名主が幕府に差し出した正式な記録で信憑性が高い と思われるので、十番未知案内サイトの説は、正しかったことが確認されました。また、この他にも麻布区史によると、文化年間(1804〜1817年)に表された「飛鳥川」には、 「麻布一本松も先年焼失して、今の松に植えかへ、昔の松の影もなし」と記されているというが、これは1806年文化三(1806)年におこった文化の大火(別名芝車町大火)との関連を想像させるものであり、 事実ならば、一本松は江戸の三大大火といわれる「明和の大火」、「文化の大火」で焼失していたことがわかる。
松の横には道標として使用されたと思われる古い標石、「家持中」「世話人 若持中」「文化四丁卯年(1807年)」と書かれた石灯籠、 そして何か曰わくがありそうな古そうな石などがある。この古そうな石のうちの一つをよく見ると墓石であり、寛文六?年(元文六年は辛酉だが一文字しか入っていないような...)と表面に彫られている。松樹との因果は不明だが寛文6(1666)年とのことで、江戸初期のものであることは間違いない。
為其月妙林信女
六月三日
さらに麻布区史では秋月の羽衣松について、今の一本松を云った。江戸繪図を見ると、秋月候の邸地とは大分離れてゐるから、或は別に邸内に一本松があつたのかとも思はれる。 その由因は今詳らかにしない。とありこの一本松との関連を、それとなく否定している。
★江戸鹿子−壱本松あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。★続江戸砂子−一本松一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
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・呪いの狂歌
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・なんとなくクリスタル
・暗闇坂むささび変化 −はっぴいえんど「風街ろまん」収録曲
・耳袋秘帖 麻布暗闇坂殺人事件
・真珠婦人
・麻布の少年
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6.柳の井戸善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられている。
柳の井戸
柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は 明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい) であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく 東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の書と思われる。
楊柳水銘彼石泉
盈科而流
空海所呪
其霊永留
阿那楊柳
水中影浮
飲者治疾
徳潤千秋
明和二年乙酉歳中秋前一日
藤公縄義篆
藤定vチ
葛辰書
また”柳”とは、井戸の横に「うなり柳」 とも呼ばれる柳の木があるため。 「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、
柳の井戸 麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。としていて、江戸名所図会では、鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に 七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。 来歴詳ならず。とある。
弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で 常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっていると言われる。 関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時には この井戸が多くの人に水を与えた。
★説明板
湧水点 柳の井戸
自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、
古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手
に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち
噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀った
ものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大
震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質
な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、
保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われ
る。
昭和四十九年1月
東京都港区教育委員会
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7.狸橋の狸そば天現寺橋と五の橋の間に小さな橋を見つけた。狸橋と言う名の由来は昔、橋の南西に蕎麦屋があった。子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんに蕎麦を売り、そのお金を翌朝確かめると”木の葉”になっていたからとも、江戸城中で討たれた狸の 塚があったからとも言われる。ちなみにこの日の昼食は五の橋の長寿庵でたぬきそば。食べ終わり勘定を済ませ、しばらく歩いて「お釣り」を確かめてみると、手の中には石ころが二つ...........。
狸橋欄干と由来碑
「狸穴の狸そば」の伝説によると、
狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があった。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したという。名の起こりは、 徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀し たことから始まったという。狸を葬った狸塚は広尾にあったとも言われる。この狸橋を渡ったあたりを江戸期には「狸蕎麦」という地名で呼んでいたので、資料はないものの狸穴の古狸はこのあたりに葬られたものかと推測する。
現在の狸橋は昼間でも人通りが少なく、おそらく地元住民しか通らない橋となっているが、江戸期の天現寺橋は 古川ではなく笄川(竜川)にかかる橋であったため、目黒・白金方面に抜ける橋は四の橋(相模殿橋)の上流には狸橋しかなかった。 おそらくに日中は目黒不動参詣などにより、狸橋にかなりの通行があったものと思われるが、夜は極めて寂しい場所であったことが推測される。
また、この橋の下流にある四の橋(相模殿橋)近辺には狐にちなむ伝説「狐しるこ」が残されいる。またさらに現在の白金商店街入り口 付近には江戸期から 鰻の名店「狐鰻」(江戸〜明治期の鰻の名店で名士、著名人が多く利用したとされる。また安藤広重の「名所江戸百景広尾ふる川」にも描かれている) 現在も東麻布にある鰻の名店「野田岩」もこの狐鰻で修行したため店の看板に「狐鰻」の文字が書き込まれている。 (現在の店主は初代・岩次郎が四之橋狐鰻で修行した事と、鰻の種類が狐鰻と呼ばれる顔のとがった上質の鰻を取り扱っているための二つの意味から 看板に狐鰻の文字を掲載したと述べている。)
また木戸孝允日記には、
名所江戸百景広尾ふる川
1875年(明治8年)2月26日との記述が見える。 いづれにせよ、このあたりから広尾辺は江戸郊外としての静寂を保っており、他にも七不思議の一つ「広尾の送り囃子」や近隣の自然教育園が明治期には 「狸山」と呼ばれていた(近代沿革図集)こと などから狐狸との因縁の深い場所であったものと思われる。
其より井上(馨)伊藤(博文)に狐鰻店にて会し
狸橋 由来碑−碑文
狸橋の由来
むかし橋の西南にそば屋があって
子供を背負い手拭をかぶったおかみさ
んにそばを売ると、そのお金が、翌朝
木の葉になったといいます。
麻布七不思議の一つで、狸そばと呼ん
だのが、地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。
昭和53年 港区
東麻布−狐鰻 関連記事
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・我善坊の猫又
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治
・我善坊の猫又
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8.氷川神社御祭神:素盞鳴尊・日本武尊
麻布氷川神社
末社:應恭稲荷神社・高尾稲荷神社
麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在): 毘沙門天
例祭:9月17日に近い土・日曜日
チャリティ餅つき:12月初旬
初詣:12/31深夜〜
所在地:港区元麻布4-4-23
麻布の総鎮守として、また明治期からは行政権も有するといわれる社格「郷社」として人々の信仰を集めた麻布氷川神社は、 天慶五年(942)年創建源経基とも、文明年間(1469-1485)太田道灌創建とも伝わる古いお社である。
社殿
江戸初期までは、暗闇坂と狸坂をはさんだ2,000坪以上の広大な社域を持ち、社の二の鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もある)、 三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていた。そしてこの場所に現在も残されている一本松は 麻布氷川神社のご神木であったといわれる。しかし、それまでの社地が萬治二(1659)年に増上寺隠居所がとなることが幕命により 申し渡され、これをもって現在の地に遷座した。この時に付近にあった民家も広尾の祥雲寺門前に移されたため、のちに祥雲寺門前 は宮村町代地と呼ばれ、その住民は現在も麻布氷川神社の氏子であるという。
増上寺隠居所は将軍家の来訪もあり、特に桂昌院(綱吉生母)と将軍綱吉は隠居していた祐天上人を度々訪問している。また、この隠居所周辺の景観は、 三緑山志の著者・竹尾善筑は文政二(1819)年四月一四日この場所を訪れた際に辺りの景色を「八境十景」として、閑扉朦月・窓前虫声・斜径散歩・垂絲綻花・山井清澄・氷川鎮祠と詠んでいる。この中で「氷川鎮祠」と書かれた麻布氷川神社については、本誉上人により開基したときからの隠居所の鎮祠とされ、 桂昌院と綱吉の隠居所訪問時には供物を供えて麻布氷川神社を参拝したとある。
秋園芳草・祖塔蒼苔・長伝幽鐘・麻廛炊煙・總山晩雲・赤橋行客
杜間流蛍・芝峰層塔・海路遠帆・孤松膏雨・枯林宿鴉・春天紅霞
この麻布氷川神社の元地を基準として膝元の村を「宮村町」と呼び、他にも「宮下町」も神社との相対的な位置から 町(村)名が名付けられた。そしてこれと二分するように麻布山善福寺を基準とした町(村)名、西町、東町、山元町などが善福寺の門前町 として名付けられた(江戸期の正式な町名は「善福寺門前東町」などとされていた)。
文政町方書上では町の起立について、
★宮村町町名起立の儀、〜略〜当初は往古より麻布総鎮守氷川の宮これあり候につき、小名を宮村と唱え申し候。近辺に宮下鳥井坂の唱えも当所に 社地これあり候ゆえ相唱え候由、しかるところ、右鎮守社辺り寛文二寅年御用地に召し上げられ、増上寺隠居屋敷に相渡り候につき、社は 本村の内へ相移り候えども、町名の儀は同様相唱え来たり候。★宮下町麻布総鎮守氷川明神宮の下ゆえ町名に相唱え〜
江戸期には神社は必ず寺の管理下に置かれ、社を管理する寺を「別当」と呼んだ。麻布氷川神社は、麻布区史によると、★徳乗寺(徳乗院)とあり愛宕一丁目に現存する真福寺の末寺で、日ヶ窪の朝日神社と共に管理されていたことがわかる。 この徳乗寺を調べたが当初は所在地も確定できなかったので、徳乗寺を末寺としていたとされる愛宕・棲仙山真福寺に問い合わせた。 そして数日後調査の結果をお聞きした。それによると真福寺は確かに江戸期の徳乗寺が末寺であったことがわかったが、それ以上の資料は 真福寺にも残されていなかった。 改めて地図などから所在地を確認したが、真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院 芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶
★「徳乗円院」または「徳乗寺」は、・文政十二(1829)年の 『御府内備考・続編(御府内寺社備考)敷地図には見あたらない。という不思議な結果となった。
・1861(文久1)年東都麻布之絵図、1862(文久2)年の麻布地図には見あたらない。
しかし、東都麻布之絵図と同じ1861(文久1)年に作成された麻布絵図には麻布氷川神社の境内に徳乗寺と書かれており、寺は神社の境内に あったことが判明した。
別当・徳乗寺
神社境内に祀られている「高尾稲荷」は戦前まで竹谷町にあり戦後移転された稲荷だが、社が稲荷とも深い因縁を持つ家系のため から祭祀されたのかは不明。またウィキペディアには、関連項目として赤穂浪士の討ち入りの際に吉良邸で茶会が行われる事を浪士に知らせた 荷田春満(かだの あずままろ)へのリンクが貼られている。
社によると正式名称は「氷川神社」で「麻布」を冠していない。 そして江戸期の資料を見ると赤坂氷川社と混同しているものが多く見られる。これは赤坂氷川神社の所在地を「麻布今井」としているものも 多くあるので麻布には氷川神社が二つあったこととなってしまう。このためか、江戸七氷川筆頭を自称する赤坂氷川神社は自社を「本氷川」 と呼んで区別したとも考えられる。この傾向は各地の氷川神社にも見られ白金、品川なども正式には地名を冠していない。 また江戸期中期以前の麻布は「麻布七ヶ村」とも「麻布十六ヶ村」ともいわれており、現在考えられている麻布の範疇を大きく上回っていた。 これにより広い意味では後に掲載する麻布近辺の氷川神社のいくつかも麻布を冠していても不思議ではない。 しかし、創建年代が明らかとなっている近隣氷川社のうち、現在の麻布氷川神社が最も古いと伝わるので、この説を元としたい。 麻布氷川神社の創建は、天慶五年(942)年源経基によるものとも、文明年間(1469-1485)太田道灌によるものとも言われるが、 もし源経基創建説が正しければ、笄橋伝説・一本松伝説の延長線上にありその由緒は源氏と氷川神社の結びつきが強いと考えられる。
江戸期の逸話として「賤のをた巻」という書では、〜略〜 翁は次男にて稽古歩行廻る頃養兄と連立ち所々に行く。兄もと烏石が弟子にて麻布一本松の氷川の麻布総鎮守と云額は 烏石が書たると語りられし故、彼辺往来する頃心を付て見れば、いかにも烏石が筆と見えて見事なりしが 〜略〜として松下(烏石)君岳揮毫の額が社にあったことをほのめかしている。
麻布氷川神社が「江戸氷川七社」の一つであるとの伝承があるが、赤坂氷川神社サイトによると江戸期の書籍「望海毎談」を出典として 江戸氷川七社とは、@赤坂氷川神社の七社と定義し二社が不明ながらもその根拠を示している。その他、サイトによると氷川神社は全国で261社、都内でも68社あるといわれるが、
A麻布氷川神社
B渋谷氷川神社
C簸川神社(文京区)
D盛徳寺(麻布今井)
E羽根田村(新堀近き所の社)−不明
F萬年寺山−不明
麻布の周囲だけでも、・麻布氷川神社と麻布近辺は氷川神社の都内でも有数の密集地帯となっていることがわかる。
・赤坂氷川神社
・渋谷氷川神社
・白金氷川神社
・品川氷川神社
麻布近辺の氷川神社 社 名 所在地 創 建 勧 進 備 考 白金氷川神社 港区白金2丁目 不明 日本武尊 創建7世紀頃?白金村総鎮守 麻布氷川神社 港区元麻布1丁目 天慶五年(942)年 源経基 別説に創建文明年間(1469-1485)勧進は太田道灌説もあり 赤坂氷川神社 港区赤坂6丁目 天暦5(951)年 蓮林僧正 江戸七氷川筆頭 品川氷川神社 品川区西五反田5丁目 不明 不明 桐ヶ谷村鎮守 渋谷氷川神社 渋谷区東2丁目 不明 日本武尊 7世紀頃?
その他、麻布氷川神社は1990年代の人気アニメ「美少女戦士セーラームーン」で、火川神社の名で登場し、且つ同作品の主要人物の一人であるセーラーマーズ ・火野レイが巫女をしているという設定のため、放送当時ファンが押しかけたことで有名である。これは同アニメ作者が執筆当時に麻布十番商店街 に居住しており、周囲の情景や歴史をモデルとして使用されたためと推測できる。
また、昭和24(1949)年5月28日、作家の山口瞳は鎌倉アカデミアで同級生だった古谷治子との結婚式をこの麻布氷川神社であげている。
九月の例祭時には御輿庫が開かれて1935(昭和10)年に作成された千貫御輿が公開され、神楽殿では奉納神楽が行われる。 そして、麻布十番パティオを出発する御輿パレードでは十番稲荷神社と隔年で宮司によるお祓いが行われる。
また膝元の本村町会には江戸期作成とされる大きな獅子頭と山車人形が伝わり、昭和10年の宮神輿渡御絵図が保存されている。 (これらの情報は十番未知案内サイトに詳しい) 特に獅子頭を御輿に仕立てて町内を巡行するという珍しい風習は、同町内に残された伝説「釜なし横町」との因果も想像される。
本村町所蔵の獅子頭と山車人形
関連記事
・一本松
・黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
・麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
・麻布近辺の源氏伝説(総集編)
・釜なし横町
・麻布七不思議
・麻布七不思議の定説探し
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9.しみず ”ボタン”屋< 暗闇坂の登り口、宮村町へ入る道のかどにあるおもちゃ屋。この辺に住む子供でしみずを知らなければ”もぐり”と言われた。
しみず
昔は、駄菓子とプラモデルが主力商品だった。そして片隅に洋服のボタンが売られていた。 プラモデルが割と揃っていたのは、ここと六本木の”ふじかわ”位なものだった。遠足のお菓子に、ここの”あんず”を箱買 したやつがいたっけ。銭湯帰りにここで腰に手をあててラムネを飲むのが、ストレスの解消法だった。 今は、ゲ−ムソフトとプラモデルが主力のようだが、駄菓子も置いてほしんですけど.......
追記2009年
上記記載から10年が流れ、しみずは大井町に支店を出店し、店名も「MAX」となったようだ。最近子供と話をしたらMAXではなく 友達も皆「シミズ」と呼ぶという。
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10.はらきんの釣り堀
原商店看板
玄碩(げんせき)坂を下った左手に、釣り堀があった。日曜日などは、糸を垂らす隙間もないほど混んでいた。 半日かけて金魚が2匹などと言う事もあった。釣りはあまりうまくなかった。はらきんが掘った池だと思っていたが 江戸の初期にはあったようだ。この池のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。 ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んでき 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。
この金魚卸売り商店は芸術家岡本太郎の母親である岡本かの子の小説「金魚撩乱」に描かれている。また明治期の池は池群と呼べるほどの 数があり、未確認ではあるが、明治15年から17年までの短期間稼動していた麻布水道宮村町浄水貯池である可能性もその数の多さから否定できない。
3枚目の写真にある発掘調査は六本木ヒルズ建設直前で、まだ玄碩坂が通行できた折に偶然見かけたものであるが、調査は港区の教育委員会であったと記憶している。 そして発掘者に声をかけて何を調査しているのかを尋ねると、「以前あったお寺の調査です」とのお返事。おそらくこの池のすこし坂上に明治期まであった 円福寺かと思われる。この寺は同じ宮村町にあった広尾神社の別当寺である千蔵寺と共に宝泉寺(渋谷区東に現存)が明治期に住職を兼務しており、1891(明治24)年には宝泉寺と合併され渋谷に移転した。
1883(明治16)年10月に作成された「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍には 原金池とその他の池群が描かれており、その形状から天然の池を加工して恣意的に造られたと池と想像できる。 これは私見だが、明治期にあった麻布水道宮村貯水池ではと想像してしまう。 中央の赤い建物は日ヶ窪の栴檀林(現在の駒澤大学)、上の大きな池はニッカ池(現在の六本木ヒルズ毛利池)
六本木ヒルズ建設前の原金上部発掘調査 <関連項目>
・さよなら薮下
・麻布な湧き水
・麻布の水道(江戸時代)
・麻布の水道(明治の麻布水道)
・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・がま池
・「麻布新堀竹谷町」のがま池
・「麻布本村町」のがま池
参謀本部陸軍部測量局測量原図
に描かれたニッカ池と原金池
中央部赤い建物は曹洞宗大学林(現駒沢大学)
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(麻布の水系)
11.麻布山善福寺(其の一)この寺の起源は、ひじょうに古く東京では浅草寺(628年)に次ぐ842年とされている。
麻布山善福寺
弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されている。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である 青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、了海上人のいる善福寺に立ち寄った。この時 了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を、親鸞の前に差し出した。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯とした。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない。だれもが、親しみやすいもの であるべきだ。」と言い諭した。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗した。
そして親鸞が善福寺を去る時、持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられ、現存する「逆さいちょう」の起源となった言われる。
さらに本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残している。しかし、この杉の木は残念ながら現存していない。
そして、もう一つの現存する麻布七不思議として柳の井戸も同寺内参道に残されている。
中門−勅使門(復元)
その後、寺は鎌倉後期の蒙古来襲時(文永の役−文永11(1274)年)に亀山天皇の勅使寺となり、それ以来善福寺の中門は「勅使門」と呼ばれた。(昭和20年焼失1980(昭和55)年再建) 時代が下ると織田信長の本願寺攻めの際には本願寺に援軍を送り、 豊臣政権が誕生すると豊臣秀吉から所領を安堵されている。
そして江戸期には将軍家の庇護を受けたといわれ、初代将軍の徳川家康は、麻布山善福寺に天正19(1591)年11月付けで朱印を授け、 寺領の保護を誓約した。 そして、この時の住職第14世堯海は家康と近しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたので、 将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが慣わしとなった。
その後二代秀忠、三代家光も善福寺をたびたび訪問したが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深く、甲良豊後守に命じて本堂の建立を行わせている。 また、一時的にではあるが家光は善福寺の山号をこの寺のある麻布山の山形が亀に似ていることから 「亀子山」に改めさせている。この山号は家光の死後再び「麻布山」に戻されたが、この時の山号変更の痕跡が境内の手水鉢と会館正面の額に残されている。 そして、家康・秀忠・家光が鷹狩りのさいの休憩・昼食などに使用したといわれる境内の将軍家専用の茶屋は「栖仙亭」と名付けられ服部南郭撰文の「栖仙亭記」 にその名を残している。 善福寺本堂は昭和20年の空襲により消失しているが、再建された本堂は徳川家康が慶長12(1607)年に東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、 東本願寺の御影堂としても使用されていたものを1960(昭和35)年に大阪から移築した。
また麻布山善福寺オフィシャルサイトによると江戸期には麻布の他に善福寺池(杉並区)を奥の院、さらに江戸城虎ノ門を元は麻布山善福寺の山門としている。 また大田区西蒲田(荏原郡六郷領女塚村)近辺を寺領としていたとあり、当時の権勢が伺える。
麻布氷川神社の元地(暗闇坂西面)から見た相対的な場所を町名として宮村、宮下、坂下などの各町が起立したのに対して、 東町、西町、山元、の各町は麻布山善福寺の門前町であり、やはり相対的な場所を町名として起立した。
境内手水鉢「亀子山」
また、麻布区史によると逆さいちょうの下一帯と寺の背景斜面に貝殻と縄文土器、磨製石斧の出土を記しており、古来から人が住んでいた形跡を残している。
著名人の墓所も多く麻布区史によると、・車屋善八−宇喜多秀家の子孫で非人頭
・櫻井宗辿−江戸の儒者
・赤松沙鴎−松山候儒臣
・赤松太痩−沙鴎の子、儒者
・山田慥斎−儒者
・安見元道−幕府儒官
・勝川春英−浮世絵師
・勝川春好−浮世絵師遁世して善福寺に遇する
・松波筑後守−14代江戸南町奉行。弁天小僧を裁断。
・木下道圓−儒者
・木下杏林−道圓の子。儒者
などがあり、また幕末に善福寺に頻繁に出入りしていた福沢諭吉の墓がある。 福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺である善福寺で行ったのちに、諭吉が 生前自ら買い求めていた品川区大崎の本願寺(現在は常光寺)に埋葬された。 その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
本堂−東本願寺八尾別院本堂を移築 二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。と細かく伝えているが、棺が自邸を出たのが午後12時40分で善福寺の到着が午後2時としているので 三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかる。
午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
〜中略〜
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際に は、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘された。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残る。
諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参する。
また、同じ墓所入り口付近には越路吹雪のモニュメントもあるが、これは墓ではなく歌碑であり越路吹雪の墓は川崎市宮前区の本遠寺とのこと。
麻布の地名の由来は諸説あるが、「麻に布」で「あざぶ」と読むのはそれまで代官支配地で江戸郊外あった麻布各村が 町奉行支配となり「町」となって江戸に編入された江戸中期以降と思われる。これは善福寺の山号が その昔麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まったことや 寺の住職が代々麻布姓を名乗っていることから来ているともいわれるが、その根拠は明らかとなっていない。
善福寺には太平洋戦争当時の東部軍管区兵站部海軍燃料廠の感謝状が残されており、また宿坊も近衛四連隊・東部八部隊・六部隊の宿舎として徴発さ れたという。さらに寺横の斜面(昭和期に篠崎製菓があった裏手の斜面)から各方面に向けて本土決戦用の巨大な地下壕 が掘削された。
このように時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されているという。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧
その他にも善福寺は手塚治虫の「日だまりの樹」などにも登場し、幕末にアメリカ合衆国公使館となるが、ハリスの公使館については 別項で。
<関連項目>
・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)へ
・ヒュ−スケン事件
・続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・麻布七不思議
・徳川将軍家の麻布
・善福寺池
・シーボルトの見た麻布
・シュリーマンの善福寺滞在
・続、防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
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12.わんわん原っぱ大黒坂と暗闇坂の合流点に昔、空き地があった。大黒天の横から坂の頂上までの、かなり大きな空き地だった。秋には、”おんぶバッタ”がたくさんいて、 みんなで良く捕った。ここの他にも、狸坂の横、宮村公園の上、今の麻布税務署の第一パンあとの空き地と、がま池の横。今と違って駐車場などにせず、”原っぱ” ばかりだった。そこは、子供だけの世界。虫取り、2B、爆竹。大人の雑誌が落ちていると、表紙だけで鼻血をだしていた。
先日の同窓会終了後、十番の”山忠”での2次会の話題の中に、わんわん原っぱが出てきた。なぜ”わんわん”なのか私も知らなかっが、 ある奴いわく「おおかみ」が棲んでいた。と....(ばっかやろう ! 野良犬だろうが。)
おんぶバッタの他に、よく捕れたものがもう一つ「平凡パンチ」......
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13.ベアトの麻布おもしろい本を発見した。「写真で見る江戸東京」(新潮社)と言うタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っている。 その中の多くの写真を撮ったのがベアト{フェリックス(フェリ−チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれ。報道写真家。 クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ−グマンの招きで来日。
横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス−ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らした。}で、 麻布の写真も二枚ある。
一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されている。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っている。 これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景で、あらためて麻布の緑の深さに納得した。
麻布とはかけ離れるが、すごい写真がある。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真。 門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜだろう。
じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。 この直後、藩邸は焼き討ちされた。
生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩いた。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれた。
これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだろう。
ベアトのポ−トレ−トは掲載されていないが、ロバ−ト・キャパのような人だったのだろうか。(実は太って、愛敬のある人だったようである。ガッカリ!)
(写真は、著作権上掲載することができません。興味のある方は「写真で見る江戸東京」(新潮社)をどうぞ。)
14.浅布原の首塚慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人、 玉蔵院忠義法師により供養された。塚自体が現存せず、正確な場所は分からないが増上寺隠居所あたりと言う説と、西町近辺という説がある。
武徳安民記には、
「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八−−中略−−を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ」とある。
続、麻布原の首塚
続、続麻布原の首塚
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15.釜無し横丁江戸の頃、絶江坂付近に貧しい長屋があった。食事に使う”釜”も長屋中で一つしかないほど貧しかったので”釜無し横丁”と、呼ばれた。 ここの住人達はこの名を嫌がり、氷川神社の祭礼の時、無け無しの銭をはたき張り子の大きな釜が乗った山車(だし)を作り、 汚名を返上しようとしたが、張り子であることがバレてよりいっそう貧乏が有名になってしまった。
この話を聞いた時、落語かと思ったが、そうではないらしい。
16.天祖神社(芝元明神)本来、天祖神社を擁する小山町は麻布ではなく三田に属しているが、一の橋の真裏で昔ながらの町並みも大好きなので掲載させて頂く。
寛弘二年(1005年)一絛天皇の勅命のより開かれ、天照大神、水天宮を祭神とした。600年間人々の信仰を集めたが、徳川幕府による地割りの変更をうけ、神霊を飯倉神社(芝大神宮)に移したが、土地の人達の熱意によりここにも留め置き元神明宮と称した。 隣地の久留米藩有馬公の庇護をうけ、一般より崇拝を受けていた水天宮は、分霊を残し明治初年有馬屋敷の移転と共に日本橋の現在地に移った。天祖神社にはその他、平川稲荷、天白稲荷、大銀杏稲荷も祭られている。
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17.小山町
橋の写真を撮っている時見つけた町で、麻布に行くと必ず寄ってしまうようになった。橋の名前小山橋の由来をたずねた老婆に”だって小山町だから。”と笑われた。それまで全く知らなかった。村の頃から麻布ではなく三田に属する。詳細な資料が手元にないので後日追記する。 一の橋公団アパ−ト真裏の小山橋を渡るとそこは別世界。私が生まれた頃の宮村町がそこにあった。わずか50メ−トルほどの町並みで、生活に必要なものがほとんど手にはいってしまう。お風呂屋、揚げ物屋、豆腐屋、布団屋、たばこ屋、くすり屋、八百屋、クリ−ニング屋、米屋少し離れてコンビニまで。 このお風呂屋がまた、たまらない。脱衣場には、ロッカ−じゃなく籠が置いてありそうなたたずまい。暖かくなったらぜひ入りに行くつもり。奥のほうには、自販機のないたばこ屋があった。ここも良い。会話しなければ買い物が出来ない。便利さを求めて置いてきてしまったものが、ここには沢山残っている。 バブル全盛の頃、おそらく目の前に札束を山と積まれても首を縦に振らなかった住民の方達に感謝したい。
そして地下鉄が出来ても、どうぞこのまま.....
<追記2009年11月>
前記文章は1998年頃のものであるが、あれから町の西側は再開発により2棟の高層住宅が建築されて、町の景観は一変した。 また町のモニュメント的な存在の「小山湯」も大正10年以来のは営業を終えて2007年に廃業した。そしてさらに現在も町の 中心部では再開発が計画されているという。小山湯横の階段に鎮座するお地蔵様は、この様変わりをどう見ているのだろうか.....。
※この町の様子を三田小山町ご出身でワイルドワンズの鳥塚しげきさんが、「とりづか+こまつ」というユニットを結成して 1975年に発売したアルバム曲「三田小山町」をリメイクし「なんでも鑑定団」でお馴染みの北原照久氏の 「湘南佐島レコード」レーベルから発売されています。昭和30年代の三田小山町を唄ったこの曲は必聴です!
曲の詳細はこちらからどうぞ!→Torizuka Shigeki Offical Site
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18.櫻田神社
祭神:豊宇迦能賣大神(とようかのめのおおかみ)
創建年代:治承四(1180)年
創建:源頼朝の命により渋谷庄司重国が創建
祭礼:9月22日
麻布稲荷七福神(戦前)・港七福神(現在):壽老神
末社:福寿稲荷
別名:霞山稲荷とも呼ばれる
所在地:港区西麻布3−2−17
桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。 治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。 重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、
田に印の桜を植えたので桜田と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を 別名百姓町とも言った。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれたが現在は「テレビ朝日通り」と言うらしい。
江戸期には太田道灌の甲冑が寄進され御神宝とされていたが 弘化二(1845)年1月24日におこった青山火事により惜しいことに焼失した。 幕末には沖田総司、乃木希典将軍の参詣し、乃木将軍の着用した産着は櫻田社に寄進された。(現在は乃木神社に譲渡され社宝となっている)、また 硫黄島で玉砕したロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一陸軍中佐も櫻田神社の氏子であったという。そして、 遷座前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が櫻田神社の氏子となっており、日本中央競馬会正門にも神社の由緒書が掲示されている。 桜田町そして明治期からは霞町の町名は櫻田神社を由緒としている。
江戸期には大田南畝(蜀山人)が「春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて」として、やがてさく さくら田町のさくら麻の 麻布のほとり まづかすみ山とよんでいる。また同じく江戸期には桜田町は、櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛と詠まれており、その高台に位置する町域の標高(櫻田神社鳥居辺の標高は30.85mとのこと)から詠まれたと思われる。 以前の鳥居(石華表)には明治初期の几号水準点が彫り込まれていたが、改築により残念ながら現存しない。
<関連項目>
・櫻田神社宮司のブログ(外部リンク)
・桜田町に過ぎたるもの(その−1)
・桜田町に過ぎたるもの(その−2)
・麻布の句・川柳・地口・言回し・唄
・港七福神
・乃木希典(その1)
・乃木希典(その2)美人コンテスト
・沖田総司(その1)
・鈴ヶ森の殺人
・振り袖火事(明暦の大火)
・麻布の几号水準点
・篤姫行列の麻布通過
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19.ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
安政3年(1856年)7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦”サン・ゼシント号が突如下田に入港した。 大統領の信任状を示し、上陸。困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留。8月5日には、領事館旗を掲げた。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めた。
玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり通訳のヒュ−スケンと通商条約の締結に奔走した。が幕府は、引き延ばし工作を行い憔悴の日が続いた。
翌、安政4年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結した。がハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望。これは、下田奉行には、交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告した。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説いた。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入った。
安政5年1月5日条約の審議が終わったが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させた。が公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下った。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ−ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日勅許のないまま日米修好通商条約が、調印された。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問したが7月5日彼らは処分を受けた。
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まる。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置いた。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めた。
また「十番わがふるさと」によると、護衛の武士に一度ステ−キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めたらしい。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれた。
昭和に入り(昭和10年)ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり善福寺境内に顕彰碑が建てられ、除幕式には徳川家達氏、グル−駐日大使などが参列した。
その後、善福寺住職の照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したが、墓所さえも不明であった。
そして1961年師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届いた。渡米の上ニュ−ヨ−ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見した。それは、顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されていた。
<関連項目>
・麻布山善福寺(其の一)
・ヒュ−スケン事件
・続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里
・シーボルトの見た麻布
・シュリーマンの善福寺滞在
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20.鷹石(烏石)
近代沿革図集に”鷹石”という項目があり、「江戸の頃善福寺門前東町西北角に植木屋の四郎左衛門と言う物が居り伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いた所、松下君岳という者がきて石を所望し、元文6年(1741年)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は 烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたのでこのあたりを里俗に鷹石と言う。(文政町方書上)」とあった。近所なので早速調べたが、鈴ヶ森八幡という神社はなく大田区の磐井神社であることがわかった。この神社は貞観元年(859年)創建で江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進された事により江戸の文人、墨人たちにもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石(鈴ヶ森地名の由来)、 狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。
また文政町方書上には、元文(1736〜1740年)の頃東町の植木屋四郎左衛門は、伊豆より取寄せたる庭石の中に鷹の形が現はれた石があったので店先に据えて自慢したが 、いつしか町の噂となって處の名さへ鷹石と呼はるるに至った。然るに一日松下君岳といふ者がやつて来て、是非にと此の石を所望したので、 之を譲った處が、彼は此の石に烏石山人銘を加えて元文六酉(1741)年二月之を東海道の往来繁き鈴ヶ森八幡宮に奉納した。と石の移転を記している。
そして江戸名所図会には移転先の鈴ヶ森八幡の項には、この石を「烏石として」、烏石 社地の左方に在る。四五尺ばかりの石にして、面に黒漆を以て書くが如く、天然に烏の形を顕せり。石の 左の肩に南廓先生の銘あり、烏石葛辰是を鐫すと記せり。葛辰自ら烏石と号するも此石を愛せしより発するといふ。 江戸砂子い云、此石舊麻布の古川町より三田の方へ行所の三辻にありしを、後此地へ遷するなり云々。としている。
その他、松下君岳は麻布山善福寺柳の井戸横の碑文、麻布氷川神社の「麻布総鎮守」と書かれた額を揮毫している。 江戸期の書籍「兎園小説」の中で「麻布学究」こと大郷信斎は麻布の不思議な石を「麻布の異石」として取り上げているが、 その中で番外としてこの鷹石を紹介している。そして現存が確認されているのは、宮崎県に移設された「寒山拾得の石像」と大田区・磐井神社で現存する、この鷹石だけである。
関連記事
・続・鷹石
・麻布の異石
・寒山拾得の石像
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21.我善坊の猫又江戸の頃、麻布の我善坊に万屋という質屋があり主人の娘おたまと番頭の長次郎は、相愛の仲であった。と言っても恋文をやりとりするだけの清い恋愛であった。がある夜おたまの寝所に長次郎が忍んで行き、割ない仲となる。幸せが続いた2ヶ月目のある夜、いつものように寝所に忍び込んでおたまを引き寄せたとき、突然何かが長次郎に飛びついた。驚いたおたまの悲鳴で両親と家人が駆けつけると、 おたまの寝所でその家の猫と大ねずみが格闘していた。やがて大ねずみが猫の喉をかみ切り勝負が付いた。 猫の死骸をみると長次郎の着物をきていた。古くから家に住み着いていた猫が恩をわすれ化け猫となって 長次郎に成りすましていたものを、やはり古くから住み着いていた大ねずみが忘恩に憤慨して挑みかかったのだった。 その後おたまは、猫と同じ声で泣く赤ん坊を産み落とし、江戸の評判になった。ちなみに猫又とは怪猫、化け猫の事で、 猫が年をとると尾が二股になり怪をなす事から来ている。「安斎随筆」「本朝食鑑」などによると老猫の雄が 怪をなして人を食うのが猫又で、純黄の毛の猫と純黒の猫がもっとも妖をなすとある。
この話は我善坊の大鼠ともいわれ、麻布七不思議の一つとして数えられることもある。また、島崎藤村は 大東京繁昌記−飯倉付近で、〜この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。 紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋〜(P10〜11)と記している。また文政江戸町方書上では万屋について、延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ〜同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。として深山一族を記している。文政江戸町方書上は元禄期の深山伊兵衛は赤穂浪士の堀部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの 手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載している。亡主内匠頭志を達し継べきためとある。
同氏弥兵衛我等この
たび亡命致し候、母・妻ならびに
文五郎儀、貴様相替らず
御懇意、別て頼み入り存じ候、
御内儀様・仁兵衛殿へも、
右の段、よくよく仰せ伝えられ
御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上
一二月十四日 堀部安兵衛
深山伊兵衛様
また、三遊亭円生の小話「かわらけ町」では太田蜀山人とともにこの店が舞台として描かれている。 また、妖怪文芸という書籍には講談「麻布狸穴の婚礼」として狸穴の狸が井伊直政の家老庵原助左衛門に討ち取られ 、たった一匹残った子狸が猫の乳で育てられ、やがて人に害をなす。この狸が退治されると、その仇を育ての猫が.... 〜云々、とその後にこの猫又・大鼠との因縁をほのめかしている。
関連記事
・狸穴
・我善坊
・番外七不思議
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・たぬきそば
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治
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22.麻布のショ−ン・コネリ−小学生の頃、麻布で芸能人をよく見かけた。宮村坂のあたりにドリフタ−ズの合宿所があり荒井注がいた。その前に浅田美代子さんの家家があり、ちょっと下って渡辺たばこ屋でガウン姿の芥川隆行がよく電話をかけていた。またザ・ガ−ドマンの撮影を狸坂でよくやっていた。 極めつけは「007は2度死ぬ」 You Only Live Twiceの撮影で来日していたショ−ン・コネリ−を見かけたというおぼろげな記憶がある。場所は狸坂下の麻布荘(今なんと言うマンションか忘れた。)。しかし良く考えると映画の日本公開は1967年、撮影はその1〜2年前だろうから私は7〜8才である。10才くらいの時007カ−・アストンマ−チンのおもちゃを親に買ってもらったはっきりした記憶はあるが、ショ−ン・コネリ−は我ながら”ガセネタ”だと思う。どなたか事の真相をご存知の方は、ご一報下さい。ちなみにショ−ン・コネリ−はあの当時すでに”ズラ”だったと言われる。
23.ラグ−サ・お玉
明治9年日本政府の依頼で来日したベンチェンッツオ・ラグ−サ氏は、三田四国町の工部美術学校に教師として勤め日本美術界に貢献した。その教師時代にモデルとして頼まれたのが19才の清原玉である。実家は芝新堀で園芸を営み、芝増上寺の差配をしていたので多くの地所を所有していた。やがて2人に愛が芽生え両親の許しを得たのち明治15年、お玉22才の年にラグ−サの故郷イタリア、シシリ−島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ−サと改名した。シシリ−での生活を始めた玉は、自らも筆を執り子供の頃から画才に恵まれていたため、やがて南欧と日本の美を融合した独自の画風で知られるようになった。そして夫の高等美術学校の副校長としてラグ−サを助け、また彼も生涯玉を愛し続けた。しかしお玉68才の時夫ラグ−サは玉の手を握りつつ永眠し、その6年後お玉は52年ぶりに日本へ帰国した。昭和8年10月26日諏訪丸が横は横浜港に接岸すると、親族とともにパレルモで知り合って27年ぶりの再会になる マリヤデンチチ夫人も出迎えた。帰国後日本美術界に貢献したお玉も昭和14年4月6日午前2時17分、79才で永眠し麻布宮村町の長玄寺に埋葬された。
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