1.赤いくつ 2.防空壕
3.くわがた 4.番外七不思議
5.一本松 6.柳の井戸
7.たぬきそば 8.氷川神社
9.しみず ”ボタン”屋 10.はらきんの釣り堀
11.麻布山善福寺(其の一) 12.わんわんはらっぱ
13.ベアトの麻布 14.浅布原の首塚
15.釜無し横丁 16.天祖神社
17.三田小山町 18.桜田神社
19.ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐) 20.鷹石(烏石)
21.我善坊の猫又 22.麻布のショ−ン・コネリ−
23.ラグ−サ・お玉








1.赤いくつ


知らなかったと言うより、気がつかなかったのだろうが、夏の十番祭りの時”雪”がある広場(パティオ)に立っている銅像。 童謡”赤い靴”のモデル”きみちゃん”のものなのだそうだ。本名岩崎きみ、歌の中では異人さんに連れられて行ったことになっているが、実際は今の十番稲荷の辺にあった鳥居坂教会の孤児院で亡くなっていた。

きみちゃんは、1902年(明治35年)7月15日静岡県清水市宮加三で生まれ、母のかよさんと共に開拓団として北海道に渡る。しかしかよさんに再婚話が持ち上がり、また当時の開拓地の想像を絶する厳しさ等からきみちゃんが3才の時に、アメリカ人宣教師チャ−ルス・ヒュエット夫妻の養女になった。しかしヒュエット夫妻が帰国する事になった時、結核を発病した彼女は、長い船旅ができずやむなく麻布の永坂教会孤児院に預けられ、明治44年9月15日の夜、9才で亡くなったそうだ。

永坂教会孤児院は、明治26年(1893年)東洋英和女学校の関係者により貧しい人の為に開かれた日曜学校が基になり、明治27年(1894年)には、十番の貧困者の女児が売られようとするのを憐れみ、日曜学校の人々が他の不幸な子供とともに引き取ったことから、明治29年(1896年)永坂孤女院が設立され、明治37年(1904年)には永坂孤児院となり、明治42年(1909年)には永坂50番地にホ−ムが設立された。そして大正12年まで現在の「十番稲荷神社」のある場所で不幸な子供たちを収容し続けた。歌は、入植に失敗し新しい夫、鈴木志郎とともに札幌に戻った後、夫が「北鳴新報」という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃勤めていた野口雨情と親交を持つようになった、かよさんが話のつれづれに「きみちゃん」の事を雨情に話し、そのイメ−ジをもとに雨情が1921年(大正10年)に詩を作り、翌11年に本居長世が曲をつけた。この曲を本居の幼い娘たちが遊びの中で口ずさんでいたものが、いつのまにか広がったと言われる。 歌の中ではきみちゃんは、横浜から船にのって行ったことになっているが、これはかよさんは亡くなるまで、きみちゃんが8才で亡くなった事を知らずアメリカで元気に暮らしていると思っていたためである。

「赤い靴」の女の子のモデルが明らかになったのは、麻布十番商店街振興組合のパンフレットによると、「昭和48年11月の北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという婦人の投稿記事がきっかけでした。(野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会った事も無い私の姉です。)この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんが執念にも似た熱意で追跡していったのです。菊池寛さんは5年余りの歳月をかけて赤い靴の女の子の実像を求め、女の子の義妹である、そのさんの母親の出身地、静岡県清水市をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、野口雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京ついにはアメリカまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し赤い靴をはいていた女の子が実在していたことを、つきとめたのです。」とある。 銅像は、このような不幸を繰り返さないため、十番商店街の人たちによって1989年2月28日に作られたとの事。

<以下は読売新聞1998年7/14夕刊>

銅像が建ったその日に、像のすぐ側で洋品店を経営する山本さん(56歳)が、像の足元の台座に18円が置いてあるのを見つけた。誰が置いたのかわからないが翌日、気になって見に行くとやはり小銭が置かれていた。その後も不思議な寄付は続き累計が58円になった時、山本さんが試しにガラスの器を置くと、今度はその中にお金が入った。小学生がポケットの小銭を入れたり、買い物帰りの女性がお釣りを置いたり寄金は絶える事無く、翌90年3月には30万円に達した。山本さんは「きみちゃんのように恵まれない子供たちのために使ってもらおう」と考え、全額をユニセフの寄付した。これを機に、鉄製の募金箱を置いて「きみちゃんチャリティ−」と名づけた。商店街も夏祭りの収益金を寄付するなどして毎年50万円前後が集まった。今年3月まで9年間の総額は515万円。うち70万円が阪神大震災の義援金に使われたほかは、すべてユニセフに送られた。山本さんが調べたところでは、かよさんは1948年(昭和23年)「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で亡くなった。大切な娘を手放した事を最後まで悔やんでいたと言う。「赤い靴」の像は、清水市、かよさんが入植した北海道留寿都(るすつ)村、きみちゃんが米国へ渡るはずだった港のある横浜市にそれぞれ作られている。









2.防空壕


第2次世界大戦末期(昭和19年春ころ)、本土決戦を唱えた軍部は麻布の地形に目をつけ、海軍陸戦1個大隊(450名)を派遣した。 この大隊は、南山小学校を兵舎にして壕堀を始めた。「初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の裏の崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方から掘り出し、中で二又にわかれ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約6割ぐらいで、完成する前に終戦になってしまった。 壕のはば2米ぐらいで、両壁はコンクリ−トブロックで張り詰め、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレ−ルが敷かれてあった。」と”十番わがふるさと”にあり、防空壕と言うよりは、地下要塞のようなものにするつもりだったのだろうか。もう少し戦争が長引けば、この辺も激戦地になっていたのかもしれない。

続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
170.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−
171.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
172.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−
173.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集−










3.くわがた


小学生の頃、夏の楽しみは虫捕りだった。寺や屋敷が多く、昔から原生している木もわりと残っていたので、昆虫、特に甲虫が多かった。カミキリムシ、カナブン、玉虫、中でも”くわがた”を捕るのが一番面白かった。と言ってもそうどこにでもいたと言う訳じゃなく、まつたけのように、先輩から秘密に言い伝えられてきた”特定の木”にしかいなかった。 今でも覚えているのは、がま池の横、麻布山の墓地、有栖川公園、本光寺、麻布高校横、など。早朝に捕りに行く事が多かったが、不思議な事に秘密のはずの木で先客に先を越される事も多く、次第にエスカレ−トして夜明け前に家を出たこともあった。大体墓とか、池のほとりとか、昼間でも静かな所が多かったので、とても恐かったが、いっぱい捕れた時の事などを頭に描きながら歌など唄い、怖さを振り払っていた。 やっと木の側まで来ると、帰りがけの友達に会う。その手には大きなクワガタが............またやられた。
今も残っていそうな木は、麻布山くらいだろうか。
こんな事を書いていると、大変な年寄りだと思われるだろうが、これは昭和40年代半ばごろの話で、ちなみに私は、東京タワ−と同じ歳である。(やっぱり、おやじか!)




4.番外麻布七不思議


元来七不思議などと言うものは、七つと決まったものではなく”沢山”と言う意味合いの物なのだろう。
麻布七不思議もどれを七つに入れるかは、人によって異なるようだ。 以下は、七不思議の項以外の、いくつか。

長坂の脚気石
江戸の頃、永坂の坂上に”脚気石”と呼ばれる石があった。塩を供えて願いをすると、足の病に効能があり”かなめ石”とも呼ばれ評判を取った。道の真ん中にあり、通行の邪魔だと取り除こうとしたが、氷山の一角ではないが根が深く、びくともしなかった。 明治になり、露出した上部は取り除かれたが、果てしなく大きな”根”はいまだに土中にあると言う。
広尾のおくりばやし
良く晴れた秋の月夜、広尾ガ原あたりを歩いていると、どこからともなく”囃子”が聞こえてくるが、近くなったり、遠くなったりしてどこから聞こえるのか、わからなかったと言う。
狐しるこ
相模殿橋(四ノ橋)のそばで、尾張屋藤兵衛と言うものがしるこ屋を商っていた。そこに時々狐が化けて買いに来たので、評判となり大いに繁盛したという。尾張屋はそれを元手に京橋三十間堀に移転した。
狸穴の狸そば
狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があった。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したという。名の起こりは、徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀し たことから始まったという。狸を葬った狸塚は広尾にあったとも言われるが、狸橋の由来もこのことから起こったのかは、不明。

この他にも「続・麻布の名所今昔」によると、27もの不思議が...............。




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5.一本松
暗闇坂、大黒坂、狸坂を登り切った所にある松の木。
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもある。有名なものでは、源経基がこのそばの民家に宿を求め。翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたと言われる。 また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだと言うもの。その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸の羽衣の松、など数々の話がある。
現在の松は、3回目の植えつぎで、残されたものであるとの事。

根元の碑によると「江戸砂子によると天慶2年西紀939年ごろ六孫王源経基平将門を征服しての帰途此所に来り民家に宿す 宿の主粟餃を柏の葉盛り**翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松とも云う」とある。また、
「一本松=一名冠の松、麻布。大木の松に注連をかけたり。天慶二年源経基王、総州平将門が館に入て帰洛の問時、竜川を越えてこ此所に来て民家に止宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてささぐ。其の翌日、装束を麻布のかりぎぬにかえて京家の装束をかけおかれしゆえ冠の松というとぞ。彼民屋は後に転じて精舎とし、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬深き女、此松に呪詛し釘を打ちけり、それより姑の印の松といえり。小野篁の植られし松と言う説もあり。一本松に経基王の来歴わかりかねたる文段也。説も亦とりがたし。病をいのるとて竹筒に酒を入れてかくるという。」とある。









6.柳の井戸


善福寺にある井戸。
弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸。 常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっていると言われる。 また”柳”とは、井戸の横に柳の木があるためか。









7.狸橋の狸そば


天現寺橋と五の橋の間に小さな橋を見つけた。狸橋と言う名の由来は昔、橋の南西に蕎麦屋があった。子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんに蕎麦を売り、そのお金を翌朝確かめると”木の葉”になっていたからとも、江戸城中で討たれた狸の 塚があったからとも言われる。ちなみにこの日の昼食は五の橋の長寿庵でたぬきそば。食べ終わり勘定を済ませ、しばらく歩いて「お釣り」を確かめてみると、手の中には石ころが二つ...........。

狸橋 由来碑−碑文

狸橋の由来

むかし橋の西南にそば屋があって
子供を背負い手拭をかぶったおかみさ
んにそばを売ると、そのお金が、翌朝
木の葉になったといいます。
 麻布七不思議の一つで、狸そばと呼ん
だのが、地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。

昭和53年 港区










8.氷川神社


セ−ラ−ム−ンでおなじみの、ではなく古くから麻布の総鎮守府として人々の信仰を集めた氷川明神は、 創建、天慶年(942)とも文明年間(1469-1485)とも言われ、江戸氷川七社の一つである。元々ここにあったわけではなく、萬治二年(1659) 芝増上寺の隠居地になるまでは、暗闇坂西方、狸坂東方、に面を接する広大な社領を持っていた。 そして二ノ鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もある)、三ノ鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての 面目を保っていた。宮村町生まれの私は、寺が多いので”宮村”だと思っていたが、氷川神社があったからだとは、今まで知らなかった。 セ−ラ−ム−ン作者の方、次回の作品で氷川神社を元の場所に戻してもらえまいか?








9.しみず ”ボタン”屋


暗闇坂の登り口、宮村町へ入る道のかどにあるおもちゃ屋。この辺に住む子供でしみずを知らなければ”もぐり”と言われた。
昔は、駄菓子とプラモデルが主力商品だった。そして片隅に洋服のボタンが売られていた。 プラモデルが割と揃っていたのは、ここと六本木の”ふじかわ”位なものだった。遠足のお菓子に、ここの”あんず”を箱買 したやつがいたっけ。銭湯帰りにここで腰に手をあててラムネを飲むのが、ストレスの解消法だった。 今は、ゲ−ムソフトとプラモデルが主力のようだが、駄菓子も置いてほしんですけど.......









10.はらきんの釣り堀


原商店看板
六本木ヒルズ建設前の原金発掘調査
日本地図センター発行「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」図(明治16年10月)に描かれた原金池とその他の池群。中央の赤い建物は日ヶ窪の栴檀林(現在の駒澤大学)、上の大きな池は現在の六本木ヒルズ毛利池



玄碩(げんせき)坂を下った左手に、釣り堀があった。日曜日などは、糸を垂らす隙間もないほど混んでいた。 半日かけて金魚が2匹などと言う事もあった。釣りはあまりうまくなかった。はらきんが掘った池だと思っていたが 江戸の初期にはあったようだ。この池のほとりにあまり高級じゃない岡場所があり、遊女ではなく夜鷹が、かなりのボッタクリをしていた。 ある夜、久留米藩の侍が遊びにきたがあまりのひどさに腹を立て、藩の侍100人あまりを呼んできて 徹底的に打ち壊してしまった。それ以降2度と店は出来なかったそうだ。

この金魚卸売り商店は芸術家岡本太郎の母親である岡本かの子の小説「金魚撩乱」に描かれている。また明治期の池は池群と呼べるほどの 数があり、未確認ではあるが、明治15年から17年までの短期間稼動していた
麻布水道宮村町浄水貯池である可能性もその数の多さから否定できない。

















11.麻布山善福寺(其の一)


この寺の起源は、ひじょうに古く東京では浅草寺(628年)に次ぐ842年とされている。
弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されている。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門の出身である 青年、了海のいる善福寺に立ち寄った。この時了海は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を、親鸞の前に差し出した。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯とした。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない。だれもが、親しみやすいもの であるべきだ。」と言い諭した。この言葉に悟りを開いた了海は、ただちに浄土真宗へと改宗した。
親鸞が善福寺を去る時、持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが、
「逆さいちょう」の起源と言われる。 また柳の井戸も同寺内。
時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されている。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧

長くなったので、ハリスの公使館については別項で。

<関連項目>

・ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・ヒュ−スケン事件
続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里










12.わんわん原っぱ


大黒坂と暗闇坂の合流点に昔、空き地があった。大黒天の横から坂の頂上までの、かなり大きな空き地だった。秋には、”おんぶバッタ”がたくさんいて、 みんなで良く捕った。ここの他にも、狸坂の横、宮村公園の上、今の麻布税務署の第一パンあとの空き地と、がま池の横。今と違って駐車場などにせず、”原っぱ” ばかりだった。そこは、子供だけの世界。虫取り、2B、爆竹。大人の雑誌が落ちていると、表紙だけで鼻血をだしていた。
先日の同窓会終了後、十番の”山忠”での2次会の話題の中に、わんわん原っぱが出てきた。なぜ”わんわん”なのか私も知らなかっが、 ある奴いわく「おおかみ」が棲んでいた。と....(ばっかやろう ! 野良犬だろうが。)
おんぶバッタの他に、よく捕れたものがもう一つ「平凡パンチ」......






13.ベアトの麻布


おもしろい本を発見した。「写真で見る江戸東京」(新潮社)と言うタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っている。 その中の多くの写真を撮ったのがベアト{フェリックス(フェリ−チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれ。報道写真家。 クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ−グマンの招きで来日。
横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス−ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らした。}で、 麻布の写真も二枚ある。
一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されている。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っている。 これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景で、あらためて麻布の緑の深さに納得した。
麻布とはかけ離れるが、すごい写真がある。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真。 門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜだろう。
じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。 この直後、藩邸は焼き討ちされた。
生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩いた。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれた。
これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだろう。
ベアトのポ−トレ−トは掲載されていないが、ロバ−ト・キャパのような人だったのだろうか。(実は太って、愛敬のある人だったようである。ガッカリ!)
(写真は、著作権上掲載することができません。興味のある方は「写真で見る江戸東京」(新潮社)をどうぞ。)

14.浅布原の首塚


慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人、 玉蔵院忠義法師により供養された。塚自体が現存せず、正確な場所は分からないが増上寺隠居所あたりと言う説と、西町近辺という説がある。
武徳安民記には、
「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八−−中略−−を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ」とある。

続、麻布原の首塚

続、続麻布原の首塚









15.釜無し横丁


江戸の頃、絶江坂付近に貧しい長屋があった。食事に使う”釜”も長屋中で一つしかないほど貧しかったので”釜無し横丁”と、呼ばれた。 ここの住人達はこの名を嫌がり、氷川神社の祭礼の時、無け無しの銭をはたき張り子の大きな釜が乗った山車(だし)を作り、 汚名を返上しようとしたが、張り子であることがバレてよりいっそう貧乏が有名になってしまった。
この話を聞いた時、落語かと思ったが、そうではないらしい。





16.天祖神社(芝元明神)


本来、天祖神社を擁する小山町は麻布ではなく三田に属しているが、一の橋の真裏で昔ながらの町並みも大好きなので掲載させて頂く。

寛弘二年(1005年)一絛天皇の勅命のより開かれ、天照大神、水天宮を祭神とした。600年間人々の信仰を集めたが、徳川幕府による地割りの変更をうけ、神霊を飯倉神社(芝大神宮)に移したが、土地の人達の熱意によりここにも留め置き元神明宮と称した。 隣地の久留米藩有馬公の庇護をうけ、一般より崇拝を受けていた水天宮は、分霊を残し明治初年有馬屋敷の移転と共に日本橋の現在地に移った。天祖神社にはその他、平川稲荷、天白稲荷、大銀杏稲荷も祭られている。








17.小山町



橋の写真を撮っている時見つけた町で、麻布に行くと必ず寄ってしまうようになった。橋の名前小山橋の由来をたずねた老婆に”だって小山町だから。”と笑われた。それまで全く知らなかった。村の頃から麻布ではなく三田に属する。詳細な資料が手元にないので後日追記する。 一の橋公団アパ−ト真裏の小山橋を渡るとそこは別世界。私が生まれた頃の宮村町がそこにあった。わずか50メ−トルほどの町並みで、生活に必要なものがほとんど手にはいってしまう。お風呂屋、揚げ物屋、豆腐屋、布団屋、たばこ屋、くすり屋、八百屋、クリ−ニング屋、米屋少し離れてコンビニまで。 このお風呂屋がまた、たまらない。脱衣場には、ロッカ−じゃなく籠が置いてありそうなたたずまい。暖かくなったらぜひ入りに行くつもり。奥のほうには、自販機のないたばこ屋があった。ここも良い。会話しなければ買い物が出来ない。便利さを求めて置いてきてしまったものが、ここには沢山残っている。 バブル全盛の頃、おそらく目の前に札束を山と積まれても首を縦に振らなかった住民の方達に感謝したい。
そして地下鉄が出来ても、どうぞこのまま.....
















18.櫻田神社

桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、
田に印の桜を植えたので桜田と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元年(1624年)ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を別名百姓町とも言った。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれたが現在は「テレビ朝日通り」と言うらしい。










19.ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)




安政3年(1856年)7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦”サン・ゼシント号が突如下田に入港した。 大統領の信任状を示し、上陸。困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留。8月5日には、領事館旗を掲げた。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めた。
玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり
通訳のヒュ−スケンと通商条約の締結に奔走した。が幕府は、引き延ばし工作を行い憔悴の日が続いた。
翌、安政4年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結した。がハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望。これは、下田奉行には、交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告した。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説いた。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入った。
安政5年1月5日条約の審議が終わったが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させた。が公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下った。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ−ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日勅許のないまま日米修好通商条約が、調印された。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問したが7月5日彼らは処分を受けた。
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まる。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を
麻布山善福寺に置いた。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めた。
また「十番わがふるさと」によると、護衛の武士に一度ステ−キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めたらしい。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれた。
昭和に入り(昭和10年)ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり善福寺境内に顕彰碑が建てられ、除幕式には徳川家達氏、グル−駐日大使などが参列した。
その後、善福寺住職の照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したが、墓所さえも不明であった。
そして1961年師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届いた。渡米の上ニュ−ヨ−ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見した。それは、顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されていた。

<関連項目>

・麻布山善福寺(其の一)へ
・ヒュ−スケン事件
続・ヒュースケン事件
・ハリスと唐人お吉
・ヒュ−スケンとお鶴、お里









20.鷹石(烏石)

近代沿革図集に”鷹石”という項目があり、「江戸の頃善福寺門前東町西北角に植木屋の四郎左衛門と言う物が居り伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いた所、松下君岳という者がきて石を所望し、元文6年(1741年)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は 烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたのでこのあたりを里俗に鷹石と言う。(文政町方書上)」とあった。近所なので早速調べたが、鈴ヶ森八幡という神社はなく磐井神社であることがわかった。この神社は貞観元年(859年)創建で江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進された事により江戸の文人、墨人たちにもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。


関連記事  
「続・鷹石」









21.我善坊の猫又
江戸の頃、麻布の我善坊に万屋という質屋があり主人の娘おたまと番頭の長次郎は、相愛の仲であった。と言っても恋文をやりとりするだけの清い恋愛であった。がある夜おたまの寝所に長次郎が忍んで行き、割ない仲となる。幸せが続いた2ヶ月目のある夜、いつものように寝所に忍び込んでおたまを引き寄せたとき、突然何かが長次郎に飛びついた。驚いたおたまの悲鳴で両親と家人が駆けつけると、 おたまの寝所でその家の猫と大ねずみが格闘していた。やがて大ねずみが猫の喉をかみ切り勝負が付いた。猫の死骸をみると長次郎の着物をきていた。古くから家に住み着いていた猫が恩をわすれ化け猫となって長次郎に成りすましていたものを、やはり古くから住み着いていた大ねずみが忘恩に憤慨して挑みかかったのだった。その後おたまは、猫と同じ声で泣く赤ん坊を産み落とし、江戸の評判になった。ちなみに猫又とは怪猫、化け猫の事で、猫が年をとると尾が二股になり怪をなす事から来ている。「安斎随筆」「本朝食鑑」などによると老猫の雄が怪をなして人を食うのが猫又で、純黄の毛の猫と純黒の猫がもっとも妖をなすとある。





22.麻布のショ−ン・コネリ−
小学生の頃、麻布で芸能人をよく見かけた。宮村坂のあたりにドリフタ−ズの合宿所があり荒井注がいた。その前に浅田美代子の家があり、ちょっと下って渡辺たばこ屋でガウン姿の芥川隆行がよく電話をかけていた。またザ・ガ−ドマンの撮影を狸坂でよくやっていた。 極めつけは「007は2度死ぬ」 You Only Live Twiceの撮影で来日していたショ−ン・コネリ−を見かけたというおぼろげな記憶がある。場所は狸坂下の麻布荘(今なんと言うマンションか忘れた。)。しかし良く考えると映画の日本公開は1967年、撮影はその1〜2年前だろうから私は7〜8才である。10才くらいの時007カ−・アストンマ−チンのおもちゃを親に買ってもらったはっきりした記憶はあるが、ショ−ン・コネリ−は我ながら”ガセネタ”だと思う。どなたか事の真相をご存知の方は、ご一報下さい。ちなみにショ−ン・コネリ−はあの当時すでに”ズラ”だったと言われる。





23.ラグ−サ・お玉

明治9年日本政府の依頼で来日したベンチェンッツオ・ラグ−サ氏は、三田四国町の工部美術学校に教師として勤め日本美術界に貢献した。その教師時代にモデルとして頼まれたのが19才の清原玉である。実家は芝新堀で園芸を営み、芝増上寺の差配をしていたので多くの地所を所有していた。やがて2人に愛が芽生え両親の許しを得たのち明治15年、お玉22才の年にラグ−サの故郷イタリア、シシリ−島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ−サと改名した。シシリ−での生活を始めた玉は、自らも筆を執り子供の頃から画才に恵まれていたため、やがて南欧と日本の美を融合した独自の画風で知られるようになった。そして夫の高等美術学校の副校長としてラグ−サを助け、また彼も生涯玉を愛し続けた。しかしお玉68才の時夫ラグ−サは玉の手を握りつつ永眠し、その6年後お玉は52年ぶりに日本へ帰国した。昭和8年10月26日諏訪丸が横は横浜港に接岸すると、親族とともにパレルモで知り合って27年ぶりの再会になる マリヤデンチチ夫人も出迎えた。帰国後日本美術界に貢献したお玉も昭和14年4月6日午前2時17分、79才で永眠し麻布宮村町の長玄寺に埋葬された。










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