![]() | 101. | 林田小右衛門 | ![]() | 102. | 明治の新聞記事より |
![]() | 103. | 忠義者の命 | ![]() | 104. | 尺八殺人 |
![]() | 105. | 杉田屋敷のお稲荷さん | ![]() | 106. | 大蔵庄衛門の稲荷再建 |
![]() | 107. | 堀田屋敷の狐狸退治 | ![]() | 108. | 墓石磨き魔 |
![]() | 109. | 耳袋の中の麻布辺 | ![]() | 110. | さよなら薮下 |
![]() | 111. | 黒田清隆の妻殺し疑惑 | ![]() | 112. | 黒田家老女の惨劇 |
![]() | 113. | 猿助の塚 | ![]() | 114. | がま池アップアップ |
![]() | 115. | 一夜の宝箱 | ![]() | 116. | ドゥリットル隊の南山上空通過 |
![]() | 117. | 土佐藩麻布支藩の幕末 | ![]() | 118. | 大食いの幽霊 |
![]() | 119. | 小惑星AZABU(3290) | ![]() | 120. | 鬼平犯科帳の麻布近辺 |
101.林田小右衛門昭和の始め頃まで十番に住まいのあった林田家(今でもあるのかもしれないが未確認)は、徳川家康の六代前から松平家に仕え、家康の江戸入国に付き添って江戸に来た古い家柄である。家康の江戸入りした直後の江戸では、目障りになったり差し障りがある箇所を修繕取り除けする役であった。ある所で道がぬかるんで目障りであるとの命を受けて散々考えた挙句、道端に稗(ひえ)を蒔く事を思いつき、道端を青々と彩らせた。また江戸城の堀端の松の木も林田小右衛門が植えたものだと言われ、幕末まで林田家が代々無料で植栽管理を受け継いだ。また大奥の「御能」で使う松飾も林田家の仕事で、松飾の為に保土ヶ谷にそのためだけの松の植林を持っていた。だが、幕府からの禄は微禄で三人扶持でしかなかった。しかしこれは表向きで、その他諸家からの扶持が四百人扶持を下らなかったと言い、その生活は豪勢を極めた。
林田家には小右衛門の本家の他に、麻布新門の林田弥右衛門、南日ヶ窪の林田彦兵衛、北日ヶ窪の林田正兵衛の3つの分家があったがいずれも百人扶持ほどの収入があり生活は豊かであったと言う。
しかし何と言っても本家の勢いが一番で、林田本家は他に手代を六十人も使って大名相手の「高利貸し」を行っていた。これは大名が急場の資金を凌ぐ「時借り」などから莫大な利益をあげ、また返済出来ない大名からは「禄」を貰う事で相殺し、借金を払いに各地の領内から江戸に来た村長(むらおさ)が店を訪ねた時にはご馳走で歓待したとも言う。
この様に世渡り上手な林田家は幕府が倒れる時も、ある縁故で官軍の御用を勤め、山県、大隈公をはじめ知己があったという。また江戸城開城の時は、林田が食事から夜具まで一切の世話をしたという。明治になり北畠男爵とも姻戚となり、十番も一町四方百両で下げ渡されたという。
冒頭にも書いたが、この林田家が現在も十番に現存しているかは未確認だが、もしあれば十番でも有数の旧家と言う事が出来ると思う。
102.明治の新聞記事よりむかし3「錦絵新聞」でも取上げたが、再び明治時代の新聞から麻布近辺に関係した記事を御紹介。
怪談蛙の祟り
- 明治の始めに金杉にあった劇場「川原崎座」は、もと戸田の屋敷跡で昔、屋敷の門前に国元から百姓が多数押しかけて強訴に及んだので、これらの百姓をことごとく門内に呼び寄せて残らず首をはねてしまった。その怨念が池に出ると噂していたが、この度池を埋めて川原崎座が建てられたので、開業の日に市川海老蔵が死去し、開業の初公演で大道具係りが怪我の上死亡、その後には市川団十郎が公演中に怪我、座元が証明書の関係で入牢したのもその祟りではと、土地の古老が語っている。(明治8年3/16)
狐と衝突
- ある薄暗く曇った日の早朝、大井村の安五郎という魚売りが御殿山から高輪近辺まで来たところ、ゴツンと音がして何かにぶつかった。みると狐が自分と衝突したショックで目をまわして倒れていた。安五郎は化かされてはと、大急ぎでその場を後にした。しかし、その後にやってきた同じ村の魚売りが倒れた狐を発見し、思わぬ獲物が手に入ったと狐を引きずって行って売り飛ばし、銭儲けをしたという。(明治16年9/3)
子供の損料貸し
- 最近子供を損料(賃貸)で貸したり、借りたりするのが低所得者の間で頻繁に行われ、料金は一日5〜8銭と言う。これは乞食家業や、たわしなどを売り歩く際に子供づれだと人の憐れを誘い、実入りが良いのだと言う。貸す方もピ−ピ−泣かれたり、せがまれたりと足手まといのため、貸し出して幾分かの銭になれば一挙両得であるという。このような貸し出しは本所松坂町、四谷信濃町、麻布新網町あたりで行われていると、ある人は語った。(明治22年7/22)
泉岳寺の奇遇
- 日露戦争出征のため地方から東京に派遣され、品川からの渡航を待つ間の仮の宿舎となった泉岳寺に設営したのは大石良弼と言う名の大隊長以下47名。大石隊長はあの大石内蔵助の子孫との事で、懇ろに墓参りをしていたと言う。またこの兵士たちの雑事を受け持ったのも不思議と堀部安兵衛の末裔で堀部忠吉というものであったと言い、堀部は前にも四十七士の石碑建立にも尽力した。(明治47年3/26)
103.忠義者の命江戸時代、明和の頃に下総古河(現茨城県)に次郎右衛門という大百姓があった。その一人息子の治郎吉は怜悧な子供であったが、年頃になると病気勝ちとなりついに労症(うつ病)となって毎日を鬱々と過ごしていた。両親や、はてには親戚までも心配して相談した結果、気分転換に家の出店もある江戸の橘町に住まわせてみる事になった。初めて暮らす江戸の街。まして両国や日本橋の盛り場にも近い橘町の店に腰を落ち着けた治郎吉は、次第に元気を取り戻し番頭に仕事は任せっきリで、やがて仲間と吉原通いが常となった。
しばらくそんな生活を続けると店の帳簿に大きな穴があき、親の次郎右衛門にも露見してしまった。病の為にと出した江戸で放蕩三昧を決め込んだ息子に激怒した次郎右衛門は、治郎吉を即刻古河に呼び戻すと自宅の座敷牢に入れてしまった。そしてしばらくはそのまま捨て置かれた。しかし、日が経つにつれ再び青白い顔でふさぎこんでしまった息子を心配した母親が親戚一同に訴えてまわり、やっとのことで牢から出ることが出来た治郎吉は、相変わらず冴えない顔色で鬱々と日々を送った。「やはりここよりも江戸の方が合うのかねえ」との母親の気遣いにうなずいた治郎吉には病気とは別の病があった。江戸を離れてから逢えなくなってしまった吉原の遊女半蔀(はじとみ)への恋心である。ますます暗く沈んで行く治郎吉に病の原因がわからない両親は、遂に「このままでは一人息子を見殺しにすることになってしまう」と息子を再び江戸に出すことを決めた。
再び江戸に戻れた治郎吉は今までを悔い改め、半蔀(はじとみ)の事も忘れて率先して仕事に精を出した。やがて両親や親戚ももう大丈夫と思った頃、仕事三昧だった治郎吉を昔の悪友が吉原に誘った。一度くらいはと気を許した治郎吉は再び吉原の門をくぐり、懐かしい半蔀(はじとみ)のもとへ.......。気がつくと再び放蕩三昧の吉原通いが始まってしまった。しかし、しばらくして様子を見に来た父親の次郎右衛門に見つかり、今度はいきなり勘当されてしまった。困った治郎吉は通いなれた吉原の傍を歩いてなじみの茶屋や船宿に援助を求めたが、「勘当」が知れ渡っていて誰も相手にしてくれない。途方に暮れていると座敷に何度か呼んだ事のある幇間の義兵衛が自宅に呼んで吉原に入る手はずと1両の金を工面してくれた。
やっとのことで半蔀(はじとみ)と再会した治郎吉はここで意外な事を聞く。半蔀(はじとみ)は治郎吉が勘当されて仕事も無く無一文を承知で自分が吉原を足抜けして養うと言う。この言葉で目の覚めた治郎吉は親身になって心配してくれる幇間の義兵衛の援助を断り、まっとうな商売につくために、昔店で雇っていた長八という者を訪ねた。相談を受けた長八も援助を申し出、まずは、「住まいが決まるまではここにいてください。」と麻布市兵衛町にある自分たち夫婦の貧乏所帯に同居させた。半蔀(はじとみ)も幇間の義兵衛に助けられて命を賭けて吉原を脱出し、長八の長屋へと落ち着いた。気の良い長八夫妻は嫌な顔一つせずに二人の面倒をみたが、元々の貧乏所帯に食い扶持が増して、どうにもならなくなってしまった。長八の妻は元の奉公先の若旦那の一大事とあっては遊女屋へ身売りも覚悟したが、歳がゆきすぎているために諦め、あれこれ探した挙句にやっと御先手組の与力の屋敷で身の回りの世話をすることと決まった。しかしこの時に前金でもらった二両二分もたちまち生活費と消えてしまった。
二人の居候を抱えた長八はそれでも何とか治郎吉の役に立ちたいと最後には追い詰められて泥棒を思いつく。ある日の夕方山の手に用足しに行って来ると家を出た長八は夜通し牛込、市谷あたりの武家屋敷を歩いたが、素人に忍び込めそうな屋敷は一軒も無かった。疲れ果ててある屋敷の前に来ると、不思議なことに塀に梯子が立て掛けてある。植木屋の忘れ物かとおもっていると、屋敷の中から大きな包みを担いだ男が降りてきた。泥棒である。そして長八はとっさの思いつきで梯子を倒した。慌てた泥棒は逃げようとしたが長八はその泥棒の前に回り手をついて頼んだ。
「おれはご主人様にご恩返しするために、どうしても金がなくては義理が立たないんだ。死ぬ覚悟で盗みに 入ろうとしていたんだ。ここで泥棒に会えたのは有難い。たぶんお前は金も盗んだろうから、それを貸し て暮れないか。頼むから貸してくれ」
「とんでもねえ事を言うぜ」
「本当なんだ。この通り頭を下げて頼む」
「ちょっと待ってくれよ。涙を流して頼まれたんじゃ、こちとらも困る。まあ、向こうへ行って話そうじゃねえか」
屋敷の前で話も出来ないので二人は土手まで歩き、長八は改めて身の上を話した。
「お前さんは忠義者なんだねぇ。感心したぜ」
「感心はいいから、金を貸してもらいてぇ」
「待ちなよ。あの屋敷からいくら盗んだのか、まだ数えてもいねぇ」
「全部でいいよ」
「勝手を言うなぃ。いいからこれを取っておけ」
放り出した小判の音がチャリンと鳴り、長八は慌てて拾い集めた。
「いづれ若旦那は勘当が許されるだろうから、その時は倍にして返すよ」
「まあいいさ」
「住所と名前を教えとくれ」
「泥棒に住所があるものかい」「名前は」
「名前を名乗る泥棒がどこにある。どうせその内に捕まってお仕置きにあうんだから、礼を言ってくれる事 もねえよ」
「たとえ泥棒でも、恩人は恩人だ。恩返しは必ずする」
「それほど言うなら、こうしようじゃねえじか。おれはいづれ首を刎ねられるから、今日を命日と思って線 香でも立ててくれ。それでいいよ」
そう言ってさっさと帰って行く。長八は気が済まないから、
「おい、待ってくれ。おい、泥棒」
「ばかやろう。大声で泥棒と呼ぶんじゃねえ」
貰った金を数えると三五両の大金であった。泥棒が消えた方に頭を下げると、あたりが急に騒がしくなってきた。泥棒が屋敷に火をかけてきたらしい。こんな所にいて役人に見咎められたら危ないと歩き出すと、早速前から来た侍に声をかけられ何をしていたのかと詮議されたが片袖をちぎられながらも隙をついて逃げ出した。これで若旦那にも少しは楽がしてもらえる...............。
翌日長八は近所に豆腐を買いに出た。すると侍が長八を呼び止めた。気がついてみると長八は昨夜のままの片袖がちぎれた着物を着たままだった。その侍はちぎれた袖を持って街中を見張っている火附盗賊改の与力で笠原という者であった。その場で長八は取り押さえられ、この知らせは橘町の出店にも届き、驚いた番頭は早速、半蔀(はじとみ)と治郎吉を引き取りこれまでのいきさつを聞いた。長八の忠義を聞いた番頭は早速古河に知らせ、主人の次郎右衛門もすぐさま江戸に出て長八の無実をに訴えるためお役所に日参した。そしてそれのみならず、神仏にも願をかけて長八の無事を祈った。しかし、拷問など厳しい取り調べを受けた長八はとうとう犯行を自供してしまう。この取り調べをし、また長八を捕まえた火附盗賊改与力の笠原は何と長八の女房が金の為に奉公に上がっていた屋敷の主人で、笠原は少し歳は行っているが美形であった長八の女房を我が物とするために、長八を無理に自白に追い込んでいた。
屋敷に帰った笠原は亭主の長八が自供した事を女房に告げ、自分のものとなれば罪を手加減しようと持ちかけた。しかし何とかその場を逃れた長八の女房はその足で北町奉行所の依田豊前守の元に駆け込み、事の仔細を訴えた。これにより笠原の悪事は露見し、即刻改易。またその上司もお役御免となった。そして捜査をやり直してみると、あの長八が出会った泥棒はすでに捕まっていて罪を一切自供していた。
瀕死の状態で牢から出た長八はその後、忠義の厚さを重んじた主人の次郎右衛門に引き取られ古河で使用人の頭となった。また半蔀(はじとみ)も正式に吉原から身請けして晴れて治郎吉と夫婦となった。その他この件で迷惑をかけた人たちにも丁重に礼をして一件は落着したという。その後も、この一家は栄えて今日(江戸中期)に」至っているという。そしてこの話は治郎吉本人がずっと後に話した事を江戸の町奉行であった「耳嚢」の著者が聞いて書いたと言われ、「耳嚢」のなかでも最も長い話となっている。(耳嚢での原題は「実情忠臣危難をまぬがるる事」)またこの話の一部を人情噺の「雪の瀬川」で使用しているが、話の大筋は実話である。
104.尺八殺人
天保6年(1835年)7月27日、麻布桜田町に住む喜八は嫁の「あき」の実家である品川天妙国寺前の煙草屋「近江屋」に夫婦で訪れた。夫婦で麻布から品川まで籠を連ねてやってきたその日の用件は、舅の藤兵衛に借金を申し込むためであった。夫婦は近江屋に着くと挨拶もそぞろに早速借金の話しを切り出した。しかし、舅の藤兵衛はあまり話も聞かぬうちに乱暴に申し出を断ってしまった。
わざわざ夫婦そろって頭を下げているのに邪険に扱われ、頭に来た喜八はたまたま傍にあった尺八で藤兵衛の頭を強打し、藤兵衛はその場で気絶してしまった。
騒ぎを聞きつけた近所の者たちが駆けつけ、喜八を取り押さえ近くの自身番へ連れて行く一方、藤兵衛の手当てをしたが、駆けつけた医者も傷の深さにさじを投げてしまった。そして3日後には藤兵衛はとうとう死んでしまった。当然、舅を殺してしまった喜八は過ちからとはいえ殺人犯となるが、嫁の「あき」は親殺しの妻として実家に戻され悲劇は一層拡大してしまい、不憫と思った親類たちは散々相談した結果、「内済」で済ます事に決定した。婿と嫁は麻布の家に返し、藤兵衛の死骸は「病死」という事にして菩提所の南品川海晏寺へ葬る事にし、早速寺に連絡した。しかし、事件の噂を聞きつけていた寺は埋葬の許可を出さず、月末になっても葬式すら行えない。再三の親族からの哀願にもかかわらず海晏寺の住職は寺社奉行に訴え、その上で埋葬するのが良いと言いつづけたという。
残念なことにこの話しの結末は記載されていない。しかしこの事件が起こった場所は私の住まいから5分程のところにある事がわかり、天妙国寺も海晏寺も現存する。さらに驚いたことに事件があった当の煙草屋「近江屋」も現存していることが分かった。
5月13日(土)久々の土休で休みとなった私は画像を収めるために朝7:00に家を出て天妙国寺、海晏寺と廻って問題の煙草屋「近江屋」を確認するために天妙国寺のまん前にあるタバコ屋で定食屋の「松林堂」に入った。
当初私はここが「近江屋」ではないかと思っていたのだが、店内でサンマ定食と、たまたま居合わせたタクシ−運転手の早朝宴会に感化されて頼んでしまったビ−ルを飲みながら店のおばちゃんに話を聞いた中で、「近江屋」は青物横丁交差点にあるス−パ−「平野屋」であることがわかった。残念ながら「平野屋」は、まだ早朝で開店前だったので、取材することは出来なかったが、店の看板にも「Since1800」と書かれており情報に確証を持った。
ちなみに、と言うか不思議なことに天保6年(1835年)7月27日、この事件と同じ日に、にやはり尺八で人を殴って殺害してしまう事件が目白台でも起きている。詳細は麻布に縁が無いので省略するがこの当時の尺八は武器としても役立っていたのだろうか?虚無僧が尺八を持っているのは、護身用の武器としても活用したものとも考えられる。
以前「品川で見つけた麻布」シリ−ズを書いたが今回はその続編という事になった。
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105.杉田屋敷のお稲荷さん「伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われるほど江戸の街にはお稲荷さんが多かった。これは赤いのぼりや鳥居が派手で、景気がよさそうだったので江戸っ子の気性にあった為とも言われる。私が子供の頃の宮村町にも路地の奥にいくつものお稲荷さんがあったのを覚えている。(写真は宮村町本光寺脇路地にあったお稲荷さん。)寛政の初め頃、麻布笄橋の杉田五郎三郎という大御番の屋敷にある稲荷が、霊験あらたかで願い事が良くかなうと言う事で江戸の評判になり、参詣者が絶えなかった。最初は近所の老婆がお参りをして願い事がかなった程度の事であったが、寛政8年(1796年)の秋に大身の奥方が、供を6〜7人連れて豪華な籠に乗り杉田家に来て、霊夢を見たので是非その老婆に祈祷をしてもらいたいと願い出た。これを聞いた杉田家では老婆の祈祷などとんでもないと断ったが、「霊夢ですから」と哀願されやむを得ず、稲荷を拝ませ老婆を呼んできて腹などをさすらせた。その日はそれで終わったが、後日その奥方が再びやって来て、あの日から病が目に見えて良くなりついに全快したので、お礼参りがしたいとたくさんの奉納品を置いて拝んでいった。この話しがいつのまにか江戸中の人々に伝わり、稲荷は一躍有名になっておびただしい参詣者が訪れるようになったと言う。
御小姓組与頭、河野鉄太郎の三男なども痔の病で永年苦しんでいたがこの稲荷にお参りして全治したと言い、ついにこの稲荷の世話人となった。当初、参拝した後、望みの者に洗米を分ける程度だった稲荷も翌、寛政9年にはあまりの参詣者の多さに、番号順に老婆に祈祷させ洗米を渡すようになり、おかげで老婆は多忙を極め、ついには日を決めて祈祷の受け付けをする事とし、それでも老婆だけでは手が廻らないので、二百人の限定とした。しかし遠方から来たものはなかなか順番が廻ってこないので、ある日これが元で大喧嘩が起きてしまった。これによりお上からの後難と外聞をはばかった杉田家では、早速無縁の者の参拝を禁止してしまい、以降この稲荷に参拝する者もなくなり、やがて元の静かな稲荷に戻ったと言う。
江戸時代、武家屋敷内の寺社には赤羽橋の水天宮、芝の金毘羅宮、宮村町のがま池のがま信仰などの様に、多分にお札、祈祷などの副収入を見込んだサイドビジネス的なニュアンスが漂うのが常であったが、この杉田家はきっぱりとそれを断ち切っているのがかえって清々しい。
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106.大蔵庄衛門の稲荷再建前回に続き何と、またまたお稲荷さんネタである!今日の昼食もカップ麺のきつねうどんであった。最近口が少し尖ってきたような気が........。
天保8年(1837年)の9月初め頃、麻布仙台坂にある伊達藩下屋敷の長屋に大蔵庄衛門という能役者が住んでいた。ある晩、老翁が夢枕に立ち
「私は稲荷の霊である。近年の出火にて祠が焼失し難儀している。そちの尽力で祠を寄進せよ!」と言った。
庄衛門は夢ながらも、「自分も長屋住まいの身で祠の建立などとんでもありません。」と答えた。
すると老翁は「それはわかっておる!そちは力を貸せば良いのじゃ。寄進する気があれば出来るものじゃ!」と言い、場所は汐見坂上原であると言い残し消えてしまった。
ここで夢から覚めた庄衛門は、不思議な事もあるものと翌日使用人を汐見坂に行かせると、坂上に俗称「焼け跡」と言われる場所があり確かに昔、「原」と呼ばれていたとの事だった。早速庄衛門も自身で出かけ付近の者に話を聞くと、「火事で焼け跡になる前に確かにここに稲荷があり、その後、焼け跡に小さな祠を建てて祭ったが、子供が遊んでいてひっくり返すなどするために、榎にくくり付けていた。しかし、その祠も最近の大嵐で跡形も無く飛ばされてしまった。」と言う。そしてここの地主は下町の大家であると聞き、早速その大家を訪ね、霊夢の事を話し土地を借用したいと切り出すと、何とその大家も老翁の霊夢で庄衛門の来訪を待ちわびていたと言う。そしてあの土地は少しの借金のかたに取った物であるから、未練も無く、空き地総てを寄進しようと言い出した。これには庄衛門も驚き、貸してくれるだけで良いと押し問答となったが、とうとう地主に根負けして沽券、証文残らず庄衛門の物となった。この土地に庄衛門が普請し、めでたく稲荷は戻ったが、この稲荷が流行ったと言う話しは残されていない。全く不思議な話しであると結んでいる。
※汐見(潮見)坂は現六本木五丁目12番あたりで東洋英和女学院の裏手付近の坂ですが、「原」と言う里俗は確認できず、ここかどうかは判断できません。そういえばこのあたりで去年の夏に「麻布サル」が逃げ回ってましたっけ!
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107.堀田屋敷の狐狸退治稲荷つながりで、今回も「きつね」にまつわる話をご紹介。
天保9年(1838年)笄橋にある老中、堀田備中守(正篤。下総11万石)の下屋敷に三輪元進(玄真とも)という医者が住んでいた。元進は堀田家ご隠居様付きの医師で、いつもご隠居が住む屋敷の奥で治療し、同じ敷地内の自宅に帰るのが常であった。5月13日の夜、いつもの様に元進は治療に行ったが自宅にその晩は帰ってこなかった。屋敷に泊まったと思っていた家人の元に屋敷から薬を受け取りに使いの者が来て元進は昨夜10時頃提灯を下げて自宅に帰ったと言い、元進が屋敷にも居ない事がわかり行方不明となった。門番に尋ねると、昨晩は誰も表に出ていないとの事だったので大騒ぎとなり、堀田家の広大な敷地内を藩士達が6回も探したが、だれも元進を見つける事が出来なかった。
元進が無残な姿で発見されたのは8日後の5月21日のことで、屋敷内の山林の奥で腐乱した死体となって見つかった元進の足の裏には、裸足でさまよったためと思われる無数の踏み抜きの痕があったので狐の仕業だと皆が噂した。これを聞いた主人の備中守は邸内にある稲荷を閉門し、さらに領国の佐倉(印旛郡春ノ村とも)から狐狩りを得意とする藤蔵(藤兵衛とも)という58歳の百姓を江戸に呼び寄せた。
藤蔵は屋敷に来ると早速邸内の山林に小屋を立て中に鶏を吊るしてその下に落とし穴を掘り、罠とした。そして日が暮れると藤蔵は懐に入れたニボシをまきながら、酔ったふりをして大声でしゃべりながら山林を歩き、やがてニボシに釣られて付いて来た狐を少しづつ小屋におびき寄せていった。こうして6匹の狐と1匹狸が捕まった。特に狸は捕まった時に大暴れしたので殺してから罠をはずしたところ、再び蘇ったので元進を殺したのはこの狸だと言う事になった。そして、備中守に報告すると、備中守はその捕まえた7匹の狐狸を家中の者に分け与え、食べてしまえと命じた。最初は気味悪がった家中の者もその美味さから争って食べてしまい、なかなか下っ端の者の口には入らなかったという。そして堀田家には、その後も祟りがあったと言う話しは残されていない。
この事件は江戸で評判となり歌にも詠まれた。
長袖の命短く殺されて、やどにふたりが寝つ起きつ待つ
三輪くされ定めて場所も藪医者の、はて珍しき狐(くは)たき討ち哉
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108.墓石磨き魔文政の頃、寺に忍び込み、見ず知らずの墓石や石塔を勝手に磨いたり、洗ったりして廻ると言う何とも不可解な犯罪が続発した。
この怪事件?は文政10年(1827年)9月18日の夜から始まり、9月いっぱい続いたという。麻布、赤坂、芝などを中心に30ヶ寺が被害にあい、宗旨も無関係で、多い寺では一度に30本もの墓が磨かれてしまった。しかし、有名人の墓を磨くとかではなく、磨きやすそうなものをランダムに磨いたようでその手口に一貫性は全く無い。庶民の墓は2尺程で1人でも磨けただろうが、4尺もある大名の墓も磨くために押し倒されるなどの被害に遭っておりとても1人の仕業とは考えにくく、奉行所も隠した者は名主、家主まで罰すると触れを出し厳しく詮議を始めたが、一向に犯人は上がらなかった。その後風聞を聞きつけて模倣犯が続出し9月末には浅草、十条、滝野川などにも飛び火し江戸中の墓石が磨かれたという。
しばらくして騒ぎは一旦収まったが天保元年(1830年)7月、今度は武州岩槻、越谷、草加、土浦、などで再び流行り、9月には江戸で再び再燃し江戸市中だけでも286本もの被害が出た。今度は前回よりも手が込んでいて、墓に彫ってある文字に朱や金を入れたり、戒名のうち一つだけを洗ったり、年号のみを磨く、前面のみを洗うなどであった。噂は噂を呼び、願をかけた者が行ってる、切支丹の仕業、狐狸の仕業などと言われたが今回も結局判らず終いで、中には、夜に墓を洗っている者を見かけたので、男が5人で追いかけたが、賊は足が速く中々追いつけず、やっと追いつくと賊は女で捕まえようとしたが格闘の末、逆に追っ手がに捕まって5人の内3人が髪を切られてザンギリ頭になってしまったという。
しかし、何度考えても不可解な事件で、事件と言うよりは流行りのようなものだったんだろうか?何か現代の犯罪にも通じる不条理感が漂う事件であった。
109.耳袋の中の麻布辺「耳袋」という江戸中期の書物の中に麻布近辺のネタを発見したので、要約をご紹介。
怪妊(巻の四)
麻布に住んでいた松平を名乗る寄り合い(3千石以上、旗本1万石以下で無役の者)の家臣に 年頃の娘を持つ者がいた。いつの頃からかこの娘が懐妊してただならぬ様子であったが、その娘の性質からして隠し男などを作るようにも見えない。 父母の傍を朝夕離れず、好意を持った男もいないと思われるので、家族がたいへん不審に思ってその娘にあれこれと尋ねたが、全く身に覚えの無い事 と神仏に誓った。寛政8年(1796年)四月に娘は産月となったが、このころから娘の腹の中で、赤ん坊が何かものを言う様子であった。言葉の意味は 判らないが、間違い無く娘の腹から音が聞こえた。と、ある人も語っていて人々は、何が産まれてくるのかと怪しんで語ったという。
蘇生した人(巻の五)
寛政6年(1794年)ころ、芝で日雇いなどの仕事をして暮らしていた男が、ふいに病気 になり急死してしまった。それを生前懇意にしていた仲間達が集まってねんごろに弔って寺に葬った。ところが二日ほど過ぎた時に、墓の中から 唸り声が聞こえて、びっくりした寺の僧が掘り起こしてみると、死んだはずの男は蘇生していた。そこで寺から町奉行の小田切土佐守にしらせが 届き、番所で養生させてから事の次第を尋ねると、
自分が死んでいたとは知らなかった。京都に旅をして祇園から大阪道頓堀を歩き、江戸に 戻る途中、大井川で旅費が底をついてしまい途方にくれていると、川渡しの者が同情して渡してくれて何とか家にたどり着いた。その時に真っ暗 で何もわからなかったので声を立てたことを覚えている。と語った。この話しは、鎮衛が小田切土佐守から聞いたもであると書いてある。
「耳袋」とは、江戸中期に御家人から勘定方となりさらに、勘定組頭、安永5(1776)年には勘定吟味役を経て佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行などの奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が同僚や古老の話を書き留めた全10巻からなる随筆集で、猫が人に化けた話、安倍川餅の由来、塩漬にされた河童の事、墓から死人が生返った話等々、天明から文化年間までの30年にわたって書き続けた珍談・奇談を満載した世間話の集大成である。
この根岸鎮衛はまた、第26代南町奉行就任中に芝神明の境内で起きた「め組の喧嘩」を取り扱いその際に、庶民からは、御家人という低い身分のから町奉行にまで出世し、下情に通じた好人物とみなされて、大いにもてはやされた。この為に真偽はともかく、いつしか体に入墨をいれたお奉行という奇妙な伝承も生まれたと言い、桜吹雪の遠山の金さんのモデルともなった。その後の寛政12年(1815年)7月、鎮衛は 79歳で500石を加増され家禄1000石となり、
御加増をうんといただく500石 八十翁の力見給への句を残し得意の頂点となる。その句が世間に知れ渡ると、
500石いただく力なんのその われは1000石さしあげていると、悪評のあった肥田豊後守左遷のパロディにも使われた。(豊後守は左遷により1000石を幕府に返上)
そんな鎮衛も同年11月、自宅に祀っていた聖天の燈明により屋敷が焼失して自身も皮肉られ、
御太鼓をどんと打つたる御同役 八十(やそ)の翁のやけを見給へと詠まれた。さらに11月4日には18年間勤めた町奉行を辞して、12月上旬、冥界へと旅立った(一説には11月4日現職のまま逝去、同9日に奉行職転免とも)。その墓は麻布市兵衛町の善学寺にある。(余談だがこの寺の近辺には、1937年ソビエトで行方不明となった松田照子さんの家があった。)
※「耳袋」は永い間その一部しか発見されていなかったが、つい最近、その100話1000編からなる完本がアメリカのUCLAバ−クレイ校三井文庫から発見された。
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続編−続・耳袋の中の麻布辺
110.さよなら薮下5月28日のウサギ横丁さんの書きこみに誘われて、先日「薮下」に行ってまいりました。六本木駅を出て東日ビルの裏手に入ったとたん、目に入ってきたのは大きなくい打ち機械の音と、外壁がすでに壊されたビルの群れでした。少し歩いて玄碩坂の上から下を見下ろすと、普段とあまり変わっていません。安心して坂を下り始めて左手に曲がろうとすると、そこは通行止めで奥では民家の解体が始まっていました。そこまで来てあたりを見まわすと、何と、もうこのあたり一帯には誰も住んでいません!気を取りなおして玄碩坂を下ると、丁度坂が終わるあたりで何やら溝を掘っていました。しかし工事とはちょっと違う様子なのでしばらく見ていると、「港区教育委員会」と書かれたプラスチックのボックスが積み上げられている事に気づき、傍にいた現場監督に聞くと、お寺の跡の発掘調査をしているとの事。(帰って近代沿革図集で調べたら、江戸時代に円福寺というお寺があった様です。)そしてその隣が「釣堀跡」でした。このあたりは未だに水が涌いているらしく、排水ポンプが溝に差し込まれています。さらに進むと工事の建て看板があったので見ると、全体図の右上に池が載っています。 しかしこの池は位置からすると「はらきん池」ではなく「ニッカ池」の様で、期待していた「はらきん池」の復活は無さそうです。その後一旦十番通りに出て、左折して歩くと、P&G社宅跡(その前は公団住宅)も取り壊しが行なわれていて、隣のニッカ池方面も跡形もありません。しかし、ここで再び工事の人に聞いてみると、池は残っているが水を総て抜いてしまったとの事で良く見ると、池の周りの樹木はそのままありました。このあたりで雨が急に強くなってきたので、散策を打ち切りにしましたが、次回ここを訪れるときは、更に変わっている事でしょう。
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111.黒田清隆の妻殺し疑惑のちの第2代総理大臣で、当時大久保利通に次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が、陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった1878年(明治11年)3月28日の深夜に夫人の「清(きよ)」が逝去した。葬儀は翌々日の30日に各大臣、皇族の代理なども参列して厳かに行なわれた。しかし、この荘厳な葬儀が終わるとすぐに清夫人は病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという流言が飛び始めた。この噂は以前から素面のときは豪快で闊達。しかし情にもろく温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の癖があることからおこったといわれる。
3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされた。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を取り出すと袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれる)。事の重大さから酔いも一遍に醒めてすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を抱いて号泣した。そして物音に驚いて起き出した家人も凄惨な光景をみて肝をつぶしたが、その中の家令が事の重大さを察して大警視川路利良に急報し、川路はすぐさま黒田邸にかけつけた。
かけつけた川路大警視は同じ薩摩閥の要人の窮境を救うために、清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令をしき、清隆自身のアリバイ工作までして事件のもみ消しを図った。しかし、人の口に戸は立てられず、数日後には広く世間に噂されるようになってしまい顕官の横暴だと黒田批判が強まった。
この時思いがけない助けが入った。三田慶応義塾が発行する新聞「民間雑誌」明治11年4月4日号で文中では匿名の一医生として福沢諭吉が「婦人養生の事」と題する記事を発表し内容は、日本の婦女子は屋外で活動する機会が少ないため身体の虚弱を招くと言う物で、さらに文中では、黒田夫人もこれが元で病死に至ったと断定し、更に事件当日急行した麻布の医師杉田玄端の子息である武氏の所見まで掲載している。何故これほどまでして福沢諭吉が黒田清隆をかばったのかについては、確かな理由があった。
明治3年函館で榎本武揚が降伏した折、清隆は頭を丸めてまでして榎本の助命を嘆願した。これは一般的には、榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃した際、榎本は日本の将来の為に黒田に海律全書を送り、この貴重に書物の紛失を避けた。この返礼に黒田は、榎本に清酒5樽、鮪5本を送った。その時の使者であった箱館病院長であり適塾では福沢諭吉と同門であった高松凌雲の仲介により榎本は降伏し、五稜郭は開城された。その後、黒田と榎本は厚い友情に結ばれた為とされるが、現実にはその裏に福沢諭吉から黒田清輝への強い嘆願があったためとされている。つまり榎本助命で清輝から受けた「借り」を福沢諭吉はこの件で返そうとしたと言う見方も出来る。
しかし福沢の援護もむなしく、世評は相変わらず黒田批判一色であった。そしてそれまで言論統制によって沈黙を強いられていた新聞各紙を他所に風刺雑誌の「団団珍聞」4月13日号がポンチ絵で事件を風刺した。政府はすぐにこの雑誌を発禁処分としたが、もはや世間では清輝の妻殺害は定説となってしまった。
最後にこの薩摩閥の巨魁を救ったのはやはり川路大警視であった。川路は世間の定説を無視出来なくなり、遂に青山に眠る黒田夫人の墓を発掘し、棺の蓋を少しだけ開けると「これは、病死である。」と断言してまた元どおりに埋めてしまった。これにより世間の風評も収まり事件は解決した。そして世間の目を逸らすように警察は府内で大々的に野鳥の捕獲に乗り出し、事件を一層遠い物とした。
しかし、それから2週間後の明治11年5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺されるという大事件が起こった。そして犯行後に自首してきた犯人達が持っていた斬奸状には、黒田清隆の妻殺しの一件が大久保利通断罪の一事由として掲げられていた。
以下は黒田清隆の概略1840年(天保11年)鹿児島城下で薩摩藩士黒田清行の長男として生まれる。
1863年(文久3年)の薩英戦争で初めて実戦に参加。
1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦いに参戦。
1868年(明治元年)奥羽征討で、河井継之助の守る長岡城を山県有朋とともに攻略。
1869年(明治2年) 榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃。
1874年(明治10年)の西南戦争に従軍、鹿児島襲撃や熊本城の救援で功を挙げた。
1882年(明治22年) には、伊藤博文の禅譲を受け第2代総理大臣に就任。
1900年(明治33年)61歳で没。「今夜は熟睡しよう」と言って亡くなったという。
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112.黒田家老女の惨劇前回と同じく、明治時代の黒田家でおきた悲劇をご紹介。
黒田清隆の屋敷で馬丁として勤めていた岡田国蔵は、元は打網の漁師であった。そのいきさつは、元々魚が好きで自ら投網を打つのを趣味としていた黒田清隆がある日、漁師、家人を大勢連れて網を打った時に、どうしたはずみか金の煙管が海の中に落ちてしまった。
たちまち顔色の曇った黒田公を見た家人達は、また彼の癇癪癖が起こるのではと恐れ気を揉んでいると、大勢の漁師の中の1人であった岡田国蔵が突然海に飛び込み、沈んでしまった。それを見ていた仲間の漁師達は飛び込んだ国蔵を、追従もここまでするかと軽蔑し、どうせ煙管は見つからないでかえって黒田公の怒りを買うだろうと言い合った。しかし、しばらくして浮かんできた国蔵の手にはしっかりと金の煙管が握られており、それを見た黒田公は途端に満面の笑顔になると国蔵に名前を聞いて、家人として取り立てる事を告げた。それ以来、黒田公は、如才の無い国蔵をたいそう気に入って馬丁として傍に置いた。しかし、実際にお蔵番として奉公させてみると、屋敷内で紛失物が相次ぎ、まもなくそれが国蔵の仕業だと判ったが黒田公は気に留めず、なおも馬丁として奉公させた。
一方、黒田家には角田のぶというこれまた黒田公お気に入りの老女がいた。彼女は酒癖の悪い黒田公が屋敷内で暴れそうになった時も唯一公を収められる女中として、信認が大変に厚かった。
そんな2人が何かの拍子に恋仲となってしまい、屋敷の評判となった。昔なら不義密通でお手討ちというところを、黒田公はお気に入りであった2人にしぶしぶ暇を出して放免とした。その後「のぶ」は「国蔵」の妾として麻布龍土町で餅菓子屋をはじめ、麻布三連隊の兵隊などに人気が出て商売は繁盛した。一方の国蔵も妻と芝新道に家賃が75円という大きな弓場(矢場)を開いたが、こちらはあまり繁盛しなかった。しばらくすると国蔵はまだ小金を溜め込んでいた「のぶ」に北海道で一山当てようと言って連れ出し、二人は、一旦本当に北海道に行ってからしばらくすると再び東京に舞い戻って、芝愛宕の対陽館という旅館に逗留した。
国蔵は旅館の主人に「体を壊した友人の情婦を入院させるために、自分が東京まで付き添って来た」と話したという。そしてその翌日、国蔵はのぶを渋谷に連れ出して行き、それがのぶの最後の姿となった。翌日、府下渋谷の渋谷原で顔の皮を剥がされた女性の惨殺死体が見つかり大騒ぎとなったが、結局身元がわからずに事件は迷宮入りとなった。
旅館に一人で戻った国蔵は、何くわぬ顔で主人に連れが入院した事を告げると、今度は妻を呼び出して二人は故郷の房州鹿骨村に帰っていった。国蔵は北海道に行った時からのぶの殺害を計画していたが実行出来ず、わざわざ東京に戻ったのもその犯罪の完結をねらっての事だった。
しかし、故郷に戻った国蔵はしばらくすると村を出て甲州で博徒となったが悪運尽きて傷害事件を起こし、その取り調べの過程で家宅捜索された時に真新しいのぶの位牌が発見され、厳しい取調べの後に、渋谷でののぶ殺しを自供した。
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113.猿助の塚7月3日のGuestBookでchacaさんに投稿して頂いた「猿助の塚」を探しに行ってみた。しかし、南麻布を2時間以上かけて探し、韓国大使館警備のお巡りさんをはじめ、10人以上の地元と思われる方々にも聞いたが結局見つける事が出来なかった。一旦ウェンディーズで作戦を建て直し、港区三田図書館に電話をして見た。電話で対応してくれた女性はとても親切な方で、探して折り返し携帯に電話を頂けるとの事。1時間ほどすると先ほどの女性がまわしてくれた「みなと図書館の郷土資料館」から電話があり、残念ながら資料が無くてわからないとの事だった。仕方が無いので7月23日のImokoさんの書き込みにあった「宮村公園のひまわり」を撮影しに行って帰ってきた。
しかし、家に着いても塚が気になって本をめくっていると、たまたま塚の近所であろう仙台坂の話が出ていた。江戸の頃、仙台坂の中ほどにあった常鎖門(開かずの門)の内側の崖に大きな椎の樹があった。ある夜風も無いのにみしみしとすごい地響きがして樹は他の木も倒しながら根元から抜けてしまった。そしてその跡には底も知れぬ大きな穴があいていた。これを聞いた近隣のものたちは、龍が天に昇ったとか、天狗の仕業かと噂したと言う。この本を見て天狗、龍がいるのなら猿もありと、掲示板で応援を依頼すると2日ほどでchacaさんから正確な場所と情報を詳しく知っている方を紹介して頂けるという内容の親切なメールを頂戴した。(このメールが無かったらいまだに場所がわからなかったと思う。)先日再び麻布を訪れ、紹介して頂いた竹谷町に古くからお住まいのHさんの家を訪ねると、chacaさんから私の訪問をお聞きになっていて、家の中に招いていただき、親切にお話下された。その内容は、Hさんのおじいさんが明治時代の話として語ったという。この場所は終戦までは高尾稲荷というお稲荷さんで、その境内に塚があった。その塚は、明治時代このあたりに悪さをして人を困らせる大猿がいて皆困り果てていた。そしてある人が、その大猿を捕まえて打ち殺してしまった。その猿を埋めた上に塚を置いて、慰霊をした。そして終戦後、高尾稲荷は進駐軍の指令で麻布氷川神社の境内に移され竹谷町の跡地は民間に払い下げられたが、猿の祟りを恐れた人々は塚をそのまま残して供養したとのこと。しかし、いくら明治時代とはいえ、野生の猿がいたとは考えにくく、飼い猿が逃げたとも考えられるが、昨年の麻布サル事件もあり、また狸坂あたりにも大正時代まで本当に狸が居るのを目撃したという話も残っているので、あながちペットとも言えず真偽は定かではない。
Hさんはその他にも、昔の古川の様子、東町小学校、仙台山の分譲、空襲後の十番などの話を聞かせていただき、大変に貴重な情報を頂いた。最後にHさんが「竹谷町はまだ自前で町内神輿がかつげるんですよ」と嬉しそうに語った笑顔がとても印象的でした。Hさんchacaさん本当にありがとうございました。
異説その1
明治頃お屋敷の飼猿が逃げ出し、悪さをしたためこのあたりで猟銃で射殺し慰霊のため塚をこしらえた。
高尾稲荷は進駐軍の指令ではなく、持ち主が代替わりの際に氷川さまに移転させてもらった。
異説その2
昭和の5〜6年頃、町内で悪さをする猿が出没した。 あまりにいたずらが過ぎるので警察に頼んで射殺してもらった。 どこで飼われていたかなどは不明。 その後町民があわれんで墓を建てた。※「その2」は竹谷町町会の役員をなさっている 仙華氏が土地の古老に伺った話をDEEP AZABUに教えていただきました。仙華さんご協力ありがとうございました。
お稲荷さんを氷川神社に移設する際、墓も一緒にとの話も出たが たたりを恐れてそのままになっている。
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114.がま池アップアップ



最近の当ペ−ジ掲示板、Yahoo!麻布倶楽部でも掲載されている 「がま池消滅の危機」はきたしろさんから存続は可能と情報を頂いた。 これは、はらきんの釣堀、ニッカ池に続いてまた一つ麻布の湧き水がなくなってしまうと思い込んでいたので、大変にうれしい情報であった。1月の半ばに港中学PTA関係者の方から廃校に伴う記念誌に当ペ−ジのがま池画像使用の問い合わせを頂いたばかりで池の消滅を聞いたので、何とも残念な気持ちでいっぱいだったが、きたしろさんの情報によると現在の池面積より20%ほど削られてしまうが、池自体は埋めないとの事である。早速重い体を引きずって久しぶりに近辺を訪れて見ると、周辺には工事反対の看板が林立している。そして、その中の一つに池の水を循環させるポンプの電源を云々というものがあり、あれ?と思った。子供のころの池には湧いた水を一定の水位で保つために下水道に水を逃がすための排水口(水門と呼んでいた。)にはいつもジャ−ジャ−と大量の水が流れ落ちていた。その水門の中は、水流に流されて落ちてしまったと思われるザリガニの宝庫であった。自宅に戻り調べてみると1991年10月30日の朝日新聞に「がま池アップアップ」と題した記事が掲載されていることがわかった。記事によると、港区防災課が1976年に確認されたがま池など港区内の湧水地27ヵ所の追跡調査を行ったとの事で、76年〜91年の15年間の変化が記載されている。内容は、91年の再調査で湧水が確認されたのは、麻布山善福寺の柳の井戸、三田の成覚寺、高輪東禅寺、白金自然教育園など12ヶ所だけであった。なんと15年で65%もの水源が枯れてしまったと言いその中には、三田の宝生院と共に残念ながらがま池の名も確認できる(有栖川公園池もポンプによって回遊)。枯渇の原因として同記事はビル建設などにより地下水を保つ樹林地が減少している、道路の舗装により雨水が地下に浸透せず下水道に流れてしまっているなどを挙げている。
また、1991年11月10日の読売新聞朝刊にも「大火防いだ大ガマ伝説」との記事があり、こちらはがま池伝説や当時の地権者の話、最後はその頃池の傍にあった金丸信・元副総理宅の火炎瓶襲撃事件もがまのご利益でボヤ程度であったと結んでいる。そして今回のマンション立て替え工事に関連した記事が、先週2月25日付けの東京新聞に掲載されている。内容はカラ−写真付きで紹介されており、池の周囲で生息している「ゴイサギ」の幼鳥の写真を見て、一昨年の夏に池を見学させて頂いた時の、東京とは思えないほどの蝉時雨とトンボの群れを、ふと思い出してしまった。
麻布からの帰り道、一本松方面から麻布十番へ抜けようと歩くと、電信柱と区掲示板にがま池の環境保全を要求するポスタ−が(多分違法的に)貼ってあった。あ〜!と思ってよく見ると掲載された画像は私が撮ったがま池写真であった。しかし、あのポスタ−を製作したのは、私ではありませんので悪しからず!!
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115.一夜の宝箱今回は梅翁随筆という書物からのおはなし。
江戸寛政の頃、麻布に遠藤内記という神道を修めて腕は確かだがちょっと欲の深い祈祷師がいた。ある日祈祷を頼まれた内記がその家に行くとたいそう大きなお屋敷であった。欲の深い内記は家を一目見るとその大きさから、祈祷料もたくさん貰えそうだと胸中ほくそえんだ。そして、その家に入ると狂乱した者がおり、その者を祈祷で快癒させる事を家人から命じられた。
早速腕に覚えのある内記が数日間奥の一間に籠って祈祷すると、その狂乱者を正気に戻すことが出来た。この結果を大変に喜んだ家の主人は内記に「これはわずかでございますが」と一つの箱を差し出した。そして「小さいとはいえ、どうぞ大切にお扱いください。これさえあれば長寿も富貴もお望みしだいです。しかし、どんなことがあっても決して箱の蓋をあけてはいけません。」といった。内記は半信半疑ながらその箱を貰いうけて早々に帰宅してみると、大勢の人が寄り集まり、財宝が所せましと積み上げられていた。「これはいかが致した?」と問う内記に、妻は「思いがけない方たちが謝礼として金銀、巻物などを山のように置いてゆきました。後からまだまだ届くようですが、何か心当たりがおありですか?」と言い、内記はさては先ほどの箱のご利益と思い「これからは毎日がこうなるので、そのつもりで」とニコニコしながら妻に言った。その後もひっきりなしに財宝は届けられたが日も暮れてきたので、残りはまた明日と財宝を届けに来た使いの者たちを返した。その夜、もらった宝物の山と同じ部屋で床についた内記は明日からのことを思いながら眠りに落ちた......。
翌日目がさめると、昨日のことを思い出して目の前に積んである財宝を見た内記は、わが目を疑った。なんと部屋はガラクタの山でいっぱいであった。鉄くず、板切れ、古瓦、あげくに馬糞までうずたかく積み上げられ、夢も欲望も一夜限りとなってしまった内記は、ただ呆然とするだけであったという。そしておはなしは、「あの家の主人はいったい何者であったのだろうか、知る由もない。」と結んでいる。
116.ドゥリットル隊の南山上空通過先日、長い間捜し求めていた本を通りすがりの本屋で発見することが出来た。本のタイトルは「六男二組の太平洋戦争」。著者は危機管理問題などでよくテレビで拝見する佐々淳行氏である。本の内容は氏が南山国民学校(南山小学校)に通っていた昭和10年代の南山やその周囲の様子と、氏が敬愛している担任教師伊藤信雄先生などが詳細に描かれている。その本を読んでゆく中で気になったのが、「東京初空襲」の記述である。要約すると、氏が6年生になったばかりの昭和17年(1942年)4月18日の昼頃「机の下に退避!」という先生の号令で防空頭巾をかぶって生徒たちは机の下にもぐりこんだ。生徒達にとっても初めての空襲であったが、緊張していたのは最初の数分だけで、あとは机の下で子供らしい無邪気な興奮を味わっていた様である。その中で鶴岡という少年は「B25は学校の真上を飛んでいったぞ。おれはこの目で見たぞ」という記述がある。何と東京を初空襲したドゥリットル隊は南山小学校の上空を通過していたという。
開戦から4ヵ月後の昭和17年(1942年)4月18日午前7時20分、東京から1,200キロの海上にいる最新鋭の空母ホ−ネットから発進したドゥリットル陸軍中佐の率いるB-25(ミッチェル)10機が東京、2機が横浜、1機が横須賀、2機が名古屋、1機が神戸を攻撃し日本本土を初空襲した。
この作戦は、開戦以来、破竹の進撃を続ける日本への報復作戦を軍首脳に強く唱えていたル−ズベルト大統領の意向を受けたアメリカ海軍キング作戦部長により立案された。これは日頃から大統領の意向を聞いていたキング作戦部長の幕僚フランシス・S・ロ−大佐が、新鋭空母「ホ−ネット」を視察した帰りの飛行機の窓から見た陸軍爆撃機の空母攻撃訓練がヒントとなり、航続距離の長い陸軍双発爆撃機を空母に積んで日本本土を空襲するという大胆な発想の作戦をひらめかせた結果であった。そして承認を受けた作戦は早速準備が進められ、爆撃隊の指揮官にはア−ノルド陸軍大将と懇意であり予備役から最近現役少佐に復帰し、過去にさまざまな航空賞の受賞経験もあり航空工学者でもある空のスタントマンジェ−ムス・H・ドゥリットルが決定された。(ドゥリットルはア−ノルドの幕僚として作戦に参加したが、本人の強い希望で攻撃隊にも参加した。)即座に訓練は開始され、また使用するB-25もできるだけ燃料を多く積めるように改装された。1942年4月2日サンフランシスコを16ノットの速度で出航し、16機の陸軍機を搭載したミッチャ−の機動部隊16(2)は、4月14日ミッドウウェ−と西アリュ−シャン諸島の中間でハワイから出撃したハルゼ−の率いる機動部隊16(1)と合流し第16機動部隊となる。そしてさらに東に進み東京から1,200キロとなった4月18日早朝、日本の哨戒艇に発見されさらに機動部隊発見を無線で通報されたことが確認されたのでただちに爆撃隊に発進の命令が下った。本来爆撃隊は、犬吠埼から741キロの地点で発艦し夜間空襲の予定であったが、これで昼間空襲にせざるを得なくなった。しかし、あらかじめ想定されていた事態の一つであったので、乗員たちに動揺は起きず、全機発艦に成功した(本物の空母からの発艦は全員が初めてであった。)。しかし、複数の哨戒艇による無線によりアメリカ機動部隊の本土接近を知った日本海軍側は、その距離から空襲は19日と思い込み、迎撃のチャンスを自ら潰してしまった。 そして房総半島から進入した爆撃隊はそれぞれの目標へと向かう事になる。
東京爆撃隊は午後0時10分爆撃を開始し日本本土初空襲が決行された。しかし、東京では早朝から大規模な防空訓練が行われていたため現実の空襲だと気づかない人が多かった。また、空襲警報が出されたのも0時25分となり日本側の混乱がうかがえる。そして爆撃隊の各機は迎撃機、高射砲などによる迎撃を受けたが、損害は皆無であった。この爆撃隊を目撃した者は南山の鶴岡少年以外にも数多くいたと思われ、 作家の吉村昭氏は「オレンジ色のマフラーをした繰縦士の顔がはっきり見えた。」と言い、また「高射砲を撃つが、落ちてくるのは砲弾の殻だけ」、「陸軍の固定脚の九七式戦闘機が機関銃を撃ちながら追いかけていくが、撃墜できなかった。」などの証言もある。そして昭和17年4月19日付け読売新聞には東京上空を低空で飛行するB-25が掲載されている。その写真を見ると、なるほどかなり低空を飛んでおり、吉村氏の証言もうなずける(爆撃隊はレ−ダ−を避けるために70〜300mで飛行)。また爆撃隊は東京に侵入する手前(千葉・茨城県境付近)で東条英機が乗った日本の軍用機(MC-20)とすれちがっているこれは、1番機のドゥリットル中佐機であった可能性があり、ドゥリットルは回想で「我が戦隊の方にやってくる双発の陸上機に出会った。」とある。その後、東京に侵入した爆撃隊は荒川区、北区、新宿区を空襲して 死傷者者50人、家屋損害262戸(他説もあり)などの被害をだした後、中国に向けて離脱した。しかし発艦地点が予定より大幅に遠かったため予定された中国玉山へ着陸した機は1機もなく、B-25は燃料切れ、不時着などですべて破壊された。そして16機の搭乗員80名のうち、落下傘降下中死亡1名、海上不時着後溺死2名、重症3名、日本軍捕虜8名となり当時の航空作戦の「許容損害1割」を超えている。しかし爆撃成功の報を受けたル−ズベルト大統領は大喜びしたと言い、記者発表時に爆撃機の発進地を聞かれた大統領は「シャングリラ」と答えている。爆撃後のドゥリットルは中国に落下傘降下し中国軍の力を借りて重慶に到着した。そして4月26日付けで大佐を飛び越えて准将に昇進、昆明で旧友のシェンノ−トと再会、共に准将に昇進した事を祝った。そしてホ−ネットを発進して1ヶ月の1942年5月18日、ワシントンに凱旋した後に、ヨ−ロッパ戦線で指令として活躍することとなる。
今回は南山上空を飛んだのがどの機体だったのかを確定する資料は残念ながら見つからなかったが、少なくとも麻布の爆撃は免れた事が確認できた。そして、麻布が本格的な空襲に襲われるのは約2年半後の昭和19年(1944年)11月となる。 この中で南山上空を飛行したと思われる機を含む、東京を目標にした10機の概略は以下。
No. 機体番号 機長 爆撃 迎撃 対空砲火 到着地 No. 機体番号 機長 爆撃 迎撃 対空砲火 到着地 01 #40-2344 ドゥリットル中佐 工場地帯 9機 激烈 中国・パラシュ−ト降下 06 #40-2298 ホ−ルマ−ク中尉 製鉄所 なし 激烈 中国・海上に激突3名捕虜 02 #40-2292 フ−バ−大尉 工場と倉庫 なし なし 中国・胴体着陸 07 #40-2261 ロ−ソン中尉 工場・製鉄所 なし かなり 海上に激突 03 #40-2270 グレイ中尉 工場・ドック 数機 かなり 中国・パラシュ−ト降下 08 #40-2240 ヨ−ク大尉 工場 1機 なし ソビエト・パラシュ−ト降下 04 #40-2282 ホルストロ−ム中尉 ? 多数 なし 中国・パラシュ−ト降下 09 #40-2303 ワトソン中尉 工場・発電所 1機 激烈 中国・パラシュ−ト降下 05 #40-2283 ジョ−ンズ中尉 工場・発電所 なし 激烈 中国・パラシュ−ト降下 10 #40-2250 ジョイス中尉 工場地帯 16機 激しい 中国・パラシュ−ト降下
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117.土佐藩麻布支藩の幕末
藩祖、山内一豊が関ヶ原の戦功で、遠江掛川六万石から土佐一国二十四万二千石を得て成立した土佐藩には、本家の他に「南邸山内氏」、「本町山内氏」、「中村山内氏」などの分家(中村山内家は幕府非公認の支藩)があったが、その中で中村山内家の三代山内忠直の二男山内豊明(大膳亮)は元禄二年(1689年)本来外様大名ではあり得ない「若年寄」まで昇進し、さらに後将軍綱吉は慣例を破って老中にまで抜擢しようとしたが、豊明が病気を理由に辞退したので、綱吉は大いに怒り、若年寄職を罷免して中村三万石の領地まで没収してしまい、中村三万石は廃藩となった。
その豊明から三代後の山内豊成の子山内豊産は幕府旗本となり上総、下野、常陸で、三千石を領していたが、宗家九代藩主山内豊雍から新田領蔵米1万石の分知を受けて、幕府からの旧領と併せて一万三千石の土佐で唯一の支藩である新田藩が成立する。この新田藩の藩主は江戸常府でありその藩邸は麻布古川町にあったため麻布支藩、麻布山内氏とも言われた。この麻布藩邸は現在の南麻布2丁目2〜4番地にあり敷地は抱屋敷を合わせると約8000坪であった。そして幕末にはこの麻布支藩も本家土佐藩と共に風雲の中に......。
安政三年(1856年)麻布山内氏の当主となった山内豊福(とよよし)は本家十五代藩主山内豊信(容堂)を補佐して国事に奔走した。そして明治元年(1868年)1月12日、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰着した時、江戸城における評定の中の雰囲気で主戦論に同調した。しかし麻布藩邸に戻ると本家山内容堂から倒幕の方針転換を知らされ、勤皇、佐幕の板ばさみとなって進退に苦悩し、老臣堀越忠三郎から自重を諌言されたが、夜半過ぎ自刃して果てた。そして妻典子も夫の自刃を知ると幼い2人の娘の慈育を願った後遺書をしたため自刃してしまった。その後麻布支藩は、豊福の死を秘匿したまま従弟の山内豊誠(とよしげ)を養子とする願いを豊福の名義で願い出て事態の終息をはかり、その後9月16日に了承され豊誠は正式な藩主となった。これに先立ち、藩主を失った麻布支藩は本家と行動を共にして、
明治元年3月16日−−−新政府軍への参加を要請山内豊福は麻布曹渓寺と高知市旭天神町の墓所で眠りにつき、維新の被害者は歴史から忘れられていった。 しかし133年後の平成13年1月13日、それまで長い間墓前祭も行われずまた、山内家の墓所からも離れたところに埋葬されているために 高知県民からも忘れられた山内豊福も、地元の有志により追悼の行事が執り行われ、その時の様子が1月14日付け大阪版朝日新聞高知面に「山内豊福公をしのび133年祭自決した悲劇の殿様/高知」と題して掲載されている。
3月26日−−−土佐藩兵と合流して市ヶ谷尾張藩邸の東山道軍本営に入る。
4月23日−−−「斉武隊」を名乗り壬生城戦に従軍。
その後、鹿沼〜大桑村〜宇都宮〜白河〜会津〜猪苗代と転戦した後に、
9月19日−−−東京に帰着。
9月23日−−−奥州帰陣の褒章により隊長金子寛十郎が八丈一反を授かる。
11月3日−−−帰国。
明治 2年6月2日−−−戊辰軍功賞典により藩主山内豊誠に5000両の褒賞金が与えられる。
※山内の読み方は代々、宗家が「やまうち」、支封は「やまのうち」を称したという。
<追記>
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により土佐麻布支藩に召し抱えられたが、2008年12/4産経新聞によると、 大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた 高知新田藩の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたものといわれ、これに対して、山内家の家臣が答えた書状の中で 吉右衛門の三代子孫の吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと 思われる)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれているという。 側頭とは主君の側近であるので足軽から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたとおもわれる。・ニッカ池 (赤穂浪士その一)
<関連事項>
・ニッカ池 (赤穂浪士その二)
・水野十郎左衛門
・麻布の吉良上野介
・乃木希典(その1)
・寺坂吉右衛門
・ 麻布っ子、上杉鷹山
・上杉家あき長屋怪異の事
・増上寺刃傷事件![]()
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118.大食いの幽霊今回は明治8年12月7日付の読売新聞から「大食いの幽霊」をご紹介。
麻布桜田町(現在の西麻布3丁目付近)の華族阿部邸の敷地内の無人の家に、斎藤という家族が引っ越してきた。その晩、荷物を整理して やっと床に付くと妻と三男に恐ろしい大男の幽霊が見えた。その幽霊は「この家に住んだからには毎日白米三斗を炊いて煮しめを添えて我に差し出せ。もし一日でも怠ったならば家内残らず取り殺す。またこの話を他言してもやはり取り殺す。」と言って消えた。恐れおののいた斎藤家では翌日より菓子や寿司などを供えたが、毎日ではとても家計が続かないので三日目には芝のほうに引っ越していったと言う。新聞は「そんなに食いたがる幽霊が有りますものか信濃から日次に麻布まで出てくるのなら格別。」と結んでいるが、私には意味が良く理解出来ない。
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119.小惑星AZABU(3290)このタイトルを見て何の事かわかった方は相当な天文ファンと言うことなのでしょうが、なんと、「麻布」の名前が太陽系の小惑星に付いていました。小惑星AZABUは太陽から3.97天文単位(1天文単位=太陽⇔地球間の平均距離=約 1億4960万km)の場所を7.9年の周期で回っていて、その大きさは約28kmとの事。発見は1973年 9月19日 。発見者はVan Houtenn氏。場所はPalomer天文台。 命名者は元国立天文台助教授、現在は鳥取県八頭郡佐治村にある佐治天文台長の香西洋樹氏。しかし天文素人の私には、「発見者」と「命名者」の違いなどわからない事だらけであったので、早速香西先生に問い合わせたところ、非常に親切なお返事を頂戴した。
「発見者」と「命名者」の違いは、Van Houtenn氏からの申し出で、香西先生の発見した小惑星3291番とVan Houtenn氏の発見した小惑星3290番の命名権を交換した。これはVan Houtenn氏がその後に続く(3292)などと連続して命名したいとの思いがあったためとの事。そして3290番を「麻布」と命名した由来は東京天文台発祥の地(正確には、本郷との事)、さらに日本測地原点がある場所を記念し、後世に残したいと思ったからとの事であった。また、この小惑星麻布は、2001年4月上旬から7月中旬までの間太陽から3.5天文単位、地球から2.6〜3.8天文単位の位置にあり、明るさは17.3等〜18.2等なので、とても見ることはできないとの事。ちなみに、香西先生は現在までに79個もの小惑星を発見されている。
小惑星....
- おもに火星と木星との間に軌道を持つ小さな天体で、軌道の判明している小惑星は7000個以上もあるが、そのほとんどは直径数kmから数十km程度で、直径250kmを超えるものは十数個ほどである。小惑星にはまず、発見された年と月を示す仮符号が与えられる。仮符号は年と、それに続く発見された半月ごとの期間を示す英字、さらにそれに続くその半月内での発見順序を示す英字からできている。そして、それら仮符号の与えられた天体の軌道が未来の位置を予測できるほどよくわかってから、確定した番号と名前が与えられる。しかし、衛星に比べるとかなり自由に名前がつけられるとの事。(小惑星の命名についての詳細は小惑星の名前研究所でどうぞ。)
小惑星AZABUデ−タ.... こちらからどうぞ。
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120.鬼平犯科帳の麻布近辺Special Thanksの鬼平犯科帳で、麻布がタイトルになっている3編を書いたが、改めて読み直してみると3編以外にも麻布が登場する場面の多いことに気が付いたのでご紹介。
麻布の鬼平 タイトル 原作 文庫 テレビシリ−ズNo. 放送 場所 お雪の乳房 兇剣 二巻 白鸚版・吉衛門第5版 1970.1.6・1992.4.28 芝田町〜金杉橋 麻布ねずみ坂 兇剣 三巻 白鸚版・吉衛門第7版 1970.4.21・1996.8.21 飯倉片町・鼠坂 おしゃべり源八 血闘 五巻 吉衛門第4版 1993.5.12 一ノ橋 礼金二百両 血闘 六巻 白鸚版・吉衛門第7版 1972.3.23・1997.4.23 広尾・愛宕山 本門寺暮雪 追跡 九巻 錦之介版・吉衛門第2版 1982.10.5・1990.12.19 芝二本榎〜三ノ橋〜一本松 消えた男 追跡 十巻 吉衛門第5版 1994.4.27 愛宕山・芝口橋(新橋) 穴 密告 十一巻 吉衛門第8版 1998.4.29 芝西の久保 夜針の音松 一本眉 十三巻 ※ ※ 笄橋 赤い空 雲竜剣(長編) 十五巻 吉衛門第5版 1990.10.3スペシャル 芝二本榎〜将監橋 剣客医者 雲竜剣(長編) 十五巻 吉衛門第5版 1990.10.3スペシャル 芝金杉 見張りの糸 影法師 十六巻 ※ ※ 芝田町 助太刀 助太刀 二十巻 ※ ※ 芝二本榎〜伊皿子〜相模殿橋〜暗闇坂下 おしま金三郎 助太刀 二十巻 錦之介版・吉衛門第5版 1980.5.20・1992.4.15 麻布田島町 二度ある事は 助太刀 二十巻 ※ ※ 三田〜赤羽橋 顔 助太刀 二十巻 ※ ※ 芝高輪〜品川 瓶割り小僧 春の淡雪 二十一巻 吉衛門第8版 1998.4.22 神谷町〜鼠坂 麻布一本松 春の淡雪 二十一巻 錦之介版・吉衛門第4版 1981.7.21・1993.4.21 一本松〜本村町〜広尾 春の淡雪 春の淡雪 二十一巻 錦之介版・吉衛門第2版 1982.10.12・1991.3.13 芝西の久保 男の隠れ家 春の淡雪 二十一巻 ※ ※ 聖坂〜三田〜札の辻 座頭・徳の市 迷路(長編) 二十二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 鼠坂 托鉢坊主 迷路(長編) 二十二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 増上寺・赤羽橋 麻布暗闇坂 迷路(長編) 二十二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 善福寺門前〜仙台坂〜暗闇坂 引鶴 迷路(長編) 二十二巻 吉衛門第8版 1995.9.20スペシャル 暗闇坂
この表からも麻布近辺が登場する物語が本当に多い事がわかる。これは実在の長谷川平蔵宣似(のぶため)も当初、火盗改めの助役(すけやく)であったため(明和8年、1771年10月17日〜翌年3月5日までで、それ以降は7年間本役を務める。)管轄区域が日本橋より南で、麻布辺も当然含まれた。また小説中での鬼平は、恩人の息子で旗本の細井彦右衛門を屋敷のある芝二本榎に度々訪れている。この道程で麻布を通ることが非常に多い。また御殿医の井上立泉、神谷町の砥師竹口惣助などの訪問も麻布の登場に一役買っている。 そして、作者の池波正太郎が最も多く登場させている麻布の場所は「鼠坂」だと思われる。
テレビ放送 シリ−ズ 主演 放送 放送回数 白鸚第1版 先代松本幸四郎 1969.10.7〜1970.12.29 65回 白鸚第2版 先代松本幸四郎 1971.10.7〜1972. 3.30 26回 哲郎版 丹波哲郎 1975. 4.2〜1975. 9.24 26回 錦之介第1版 萬屋錦之介 1980.4.1〜1980.9.30 27回 錦之介第2版 萬屋錦之介 1981.4.14〜10.13 26回 錦之介第3版 萬屋錦之介 1982.4.20〜10.12 26回 吉衛門第1版 中村吉衛門 1989.7.12〜1990.2.21 26回 吉衛門第2版 中村吉衛門 1990.4.4〜3.27 21回 吉衛門第3版 中村吉衛門 1991.11.20〜1992.5.13 19回 吉衛門第4版 中村吉衛門 1992.12.2〜1993.5.12 19回 吉衛門第5版 中村吉衛門 1994.3.9〜1994.7.13 25回 吉衛門第6版 中村吉衛門 1995.7.19〜1995.11.1 10回 吉衛門第7版 中村吉衛門 1996.8.21〜1996.9.4、1997.4.16〜1997.7.16 14回 吉衛門第8版 中村吉衛門 1998.4.15〜1998.6.10 8回 吉衛門第9版 中村吉衛門 2001.4.17〜 5回
なお4月17日より放送されている第9版の1回目は「大川の隠居」であったが次回以降は、 2回 4/24 一寸の虫 3回 5/1 男の隠れ家 4回 5/15 一本饂飩 5回 5/22 闇の果てとの事。
