![]() | 83. | 続、麻布原の首塚 | ![]() | 84. | 鼬(いたち)坂の島崎藤村 |
![]() | 85. | 円生の見た麻布 | ![]() | 86. | 皇族の住んだ麻布付近 |
![]() | 87. | 浅田次郎の霞町物語 | ![]() | 88. | 麻布銀行の絵画 |
![]() | 89. | 芳川顕正の結婚 | ![]() | 90. | 芳川鎌子のその後 |
![]() | 91. | 品川で見つけた麻布−その1(了海上人産湯の井) | ![]() | 92. | 品川で見つけた麻布−その2(坂、寺、店?) |
![]() | 93. | 品川で見つけた麻布−その3(光福寺の大いちょう) | ![]() | 94. | 品川で見つけた麻布−その4(了海上人と紀氏) |
![]() | 95. | ハリスと唐人お吉 | ![]() | 96. | ヒュ−スケンとお鶴、お里 |
![]() | 97. | 高野長英の隠れた麻布 | ![]() | 98. | 貧女の純真 |
![]() | 99. | 鈴ヶ森の殺人 | ![]() | 100. | 麻布っ子、上杉鷹山 |
83.続、麻布原の首塚
84.鼬(いたち)坂の島崎藤村
大正5年(1916年)7月8日、55日間の船旅を経て3年ぶりにパリから帰った島崎藤村は、芝区二本榎西町3の留守宅に入った。しかし帰国してみると次兄夫妻に預けてあった2児とその留守宅の窮状は目も当てられぬほどだったという。藤村はまず次兄夫妻を下谷の根津宮永町に移し、小諸で揮毫領布会を催して金策に走り、早稲田、慶応の講師となって近代フランス文学を講じ、また「故国にかえりて」、「海へ」、童話77編からなる「幼きものに」を刊行、外遊の負債と次兄の儀侠的行動から起きた経済的破綻の改善に努めた。
85.円生の見た麻布
86.皇族の住んだ麻布付近
1868年(明治元年)天皇が江戸に入り江戸が東京と改まると、明治政府は維新後還俗などにより急に増えた「宮家」を東京に移住させた。幕末までは有栖川宮、桂宮、閑院宮、伏見宮のいわゆる四親王家だけであったが明治期には、華頂宮、山階宮(明治元年)、北白川宮、東伏見宮、梨本宮(明治3年)、久邇宮(明治9年)、賀陽宮(明治25年)、朝香宮、竹田宮、東久邇宮(明治39年)などが新設されていった。
1903年(明治36年)3月6日鳥居坂の久邇宮邸で一人の王女が誕生した。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后となることに。当時、久邇宮邸では男児を東側の和風の屋敷に当主と共に住まわせ、女児は洋館というしきたりがあったが、明治30年頃の地震により損傷を受け、民有地として売却された。その後岩崎小弥太郎邸から現在の国際文化会館と続く。つまり良子姫は東側の和風の屋敷で育った。
87.浅田次郎の「霞町物語」
88.麻布銀行の絵画
現在の「豆源」脇あたりで昭和の初期頃にあった「麻布銀行」の応接間には、洋画家長野華邦のが描いたアルプス山景の絵画が飾られていた。信州で祖父が城主であった長野華邦はアメリカに渡り絵画学校を皿洗い、窓拭きなどもしながら苦学して卒業し、メキシコに10年住んだ後に帰国した。しかし本場ヨ−ロッパでなくアメリカの画風であったために当時は人気が無く絵もまったく売れないために、その生活は極貧を極めたという。妻も大審院判事の娘であったが夫婦そろって「大酒飲み」で、たまに絵が売れても酒代と消えてしまった。家は家賃が払えないために大家に大半の畳を持って行かれ、残ったのは、大家がお情けで置いていった3畳だけ。たまに友人が遊びにくると新聞紙をひいて座らせたという。しかし性格は温和で、酒を飲まないと人と口も聞けないほど純粋な人物であった。
89.芳川顕正の結婚
90.芳川鎌子のその後
「千葉心中」--- 淡路美月
(余話)として
91.品川で見つけた麻布−その1(了海上人産湯の井)
麻布山善福寺の中興の祖了海上人は、品川区大井で生まれたと以前に書いたが、その場所は私の住まいの比較的近くにある事を最近になって知った。
「この地は麻布山善福寺の中興の了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。了海上人産湯の井、寺の後楽にあり。」とある。また、
92.品川で見つけた麻布−その2(坂、寺、店?)| 名称 | 麻布 | 品川 | その他 |
|---|---|---|---|
| 本光寺 | 宮村町日蓮宗 | 南品川顕本法華宗 | 宗派も違い2社の共通点は寺号のみと思われる。大田区池上近辺にも同じ寺号の寺がある。 |
| 善福寺 | 山元町 | 北品川 | 宗派も違い2社の共通点は寺号のみと思われる |
| 増上寺下屋敷 | 宮村町 | 上大崎 | 上大崎は、増上寺の別墅であった麻布我善坊町の土地が甲府宰相綱重邸となるに当たって替地として供され、子院として8カ寺を建立した。また隠居所でもあったようで、その点も麻布と類似している。この子院の一つ常光寺は、現在麻布山在善福寺で眠る福沢諭吉が死後に埋葬されていた寺。 |
| 正福寺 | 狸穴町 | 上大崎 | 元和五年(1619年)麻布狸穴町に開山したが寛文元年(1661年)御用地となった為、現地に移転。前記増上寺子院8カ寺の一つ。 |
| 西光寺 | * | 大井 | 現在は京都西本願寺末寺だが、もとは麻布山善福寺の末寺で慶長期の当寺の住職である「栄空」は織田信長の家臣であった武将の芳賀出雲守定仲が出家した名との事。 |
| 暗闇坂 | 宮村町 | 南品川 | 品川は最近仙台坂トンネルが開通して交通量が増え、明るい雰囲気になった。この坂が昔、仙台坂と呼ばれたが現仙台坂が道路の拡張によって出来、坂名を譲った。またゆうれい坂ともいう。 |
| 仙台坂 | 本村町 | 南品川 | どちらも仙台伊達藩の下屋敷があったためについた。品川は坂上に古くからある仙台味噌屋も健在。 |
| 鷹石 | 東町 | 鈴ヶ森 | 「むかしむかし」で書いたが、東町にあった石が鈴ヶ森に移転。 |
| 焼肉「麻布」 | * | 東大井 | 最近、京急立会川駅前にOpenした焼肉屋。詳細不明。 |
| ラ−メン「道楽」 | * | 東大井 | 京急鮫洲駅前、第一京浜沿いの、とんこつラ−メン店。麻布の旧城南中学出身の店主が経営している。ここのラ−メンは本当に美味いんでオススメです。 |
| 麻布シネマ | 麻布十番 | 東大井 | チェ−ン店のレンタル・ビデオショップ |
| 城南中学 | 六本木 | 南大井 | 麻布の城南中学は三河台中学と合併、「六本木中学」に名称変更。 |
93.品川で見つけた麻布−その3(光福寺の大いちょう)
91.了海上人産湯の井の項で書いた品川区大井の古刹「光福寺」にある麻布山善福寺の「逆さイチョウ」と兄弟だといわれる「大いちょう」は、高さ40メ−トル、幹廻り7メ−トルもあり、明治の頃までは出漁した漁師たちの航行の目印として使われていた。つまり、現代の灯台の代わりであったという。そして、光福寺にはその「大いちょう」にまつわる昔話が残されていた。
そのうちに弟子は、「あ−、あ−。」と言い出しました。
94.品川で見つけた麻布−その4(了海上人と紀氏)
大井、品川氏略系図
95.ハリスと唐人お吉
ハリス
ヒュ−スケン
97.高野長英の隠れた麻布
98.貧女の純真
99.鈴ヶ森の殺人
100.麻布っ子、上杉鷹山
上杉景勝から数えて9代目の米沢藩主となった上杉鷹山(治憲)は、麻布の生まれである。宝暦元年(1751年)高鍋藩三万石の6代目藩主、秋月種美と正室である秋月藩黒田長貞の娘春姫の次男として麻布一本松邸に生まれ幼名を「松三郎」その後「直松」と称し、10歳で上杉家の養子となるまでを一本松邸で過ごしたといわれる。しかし文久2年(1862年)に書かれた地図「御府内沿革図書」を見ると秋月邸は今の麻布高校のあたりであり、現代の感覚からすると「一本松」とはかなり離れている。また麻布区史に「秋月の羽衣松」という項があり、一本松の別名とある。しかし、私には、羽衣松が一本松と同じとは考えにくく、以前の秋月邸が一本松にあったか、別の銘木があったのではないかと考えている。先日、港区郷土資料館に行ったおりに、この事を職員に伺ったところ「昔の地名は目標物をかなり広範囲で使っている事もある」との事で事実は不明であった。
