
![]() | 156. | 麻布の几号水準点 | ![]() | 157. | 赤羽橋の迷子しるべ石 |
![]() |
158. | 読売On Lineの麻布写真 | ![]() |
159. | 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 ) |
![]() |
160. | 続・猫塚−荷風の見た猫塚 | ![]() |
161. | 麻布の石火矢試射 |
![]() |
162. | 麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1 | ![]() |
163. | 麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2 |
![]() | 164. | さよなら麻布の都電 | ![]() | 165. | 篤姫行列の麻布通過 |
![]() |
166. | 宮村町の千蔵寺 | ![]() | 167. | 夜窓鬼談の大入道 | ![]() | 168. | 麻布七不思議の定説探し | ![]() | 169. | 麻布の句・川柳・地口・言回し・唄 | ![]() | 170. | 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削− | ![]() | 171. | 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口− | ![]() | 172. | 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎− | ![]() | 173. | 続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集− |
156.麻布の几号水準点
| 麻布近隣の几号水準点(図−1) | ||||||
| ※標高は私が尺をmに換算したものもあり、参考程度とお考えください。 | ||||||
| 旧麻布区 | No. | 現存 | 所 在 地 | 標高(m) | 種 類 | 備 考 |
| 1 | × | 南麻布 西福寺 | 8.0838 | 麻布四ノ橋近傍西福寺石手水鉢 | ||
| 2 | × | 元麻布 麻布氷川神社 | 28.3348 | 麻布一本松氷川神社石華表 | 現存石華表は昭和期作成 | |
| 3 | × | 末広神社(十番稲荷神社) | 8.9796 | 石華表 | 計測地は現ハラストアー | |
| 4 | × | 東麻布 赤羽橋北詰 | 4.9566 | 赤羽根橋際迷子知ルヘ石 | ||
| 5 | × | 西麻布 霞山神社(現櫻田神社) | 30.8500 | 石華表 | ||
| 6 | ○ | 麻布飯倉狸穴坂上 | 26.3900 | 現ロシア大使館前路傍、水平面刻 | 水準点ではない? | |
| 7 | × | 六本木 光専寺 | 30.6609 | 門前碑 | 戦災により消失との事 | |
| 8 | × | 麻布長谷寺 | 31.0600 | 入り口 | ||
| ※現存率 12.5% (0%) | ||||||
| 旧芝区 | No. | 現存 | 所 在 地 | 標高(m) | 種 類 | 備 考 |
| 1 | × | 愛宕町 愛宕神社 | 6.1376 | 石華表 | ||
| 2 | × | 愛宕町 愛宕山上 | 25.4296 | 三角測点石上面 | ||
| 3 | ○ | 愛宕町 愛宕山上 | 26.2361 | 安永八年二月ト記シタル碑 | 移設? | |
| 4 | × | 新橋 (旧宇田川町) | 3.1820 | 路傍 | ||
| 5 | × | 金杉町北詰(西) | 4.4778 | 芝金杉橋欄干石柱 | ||
| 6 | × | 東新橋 会仙橋北詰東 | 2.2420 | 岸壁 | ||
| 7 | × | 新橋 蓬莱橋南詰(西) | 3.8321 | 蓬莱橋石欄干石柱 | ||
| 8 | ○ | 芝公園東照宮 | 4.0300 | 石華表 | ||
| 9 | ○ | 芝鹿島神社 | 3.9243 | 狗石台石 | ||
| 10 | ○ | 高輪大木戸 | 4.1871 | 大木戸石垣 | ||
| 11 | ○ | 白金覚林寺(清正公) | 12.7753 | 門前碑 | ||
| 12 | × | 白金台町 妙延寺 | 28.9700 | |||
| 13 | ○ | 白金三光町 西光寺 | 14.2100 | 念仏碑 | ||
| 14 | ○ | 西久保八幡町 八幡神社 | 22.2700 | 石華表 | ||
| 15 | ○ | 三田 綱の手引坂上 | 路傍、水平面刻印 | 水準点ではない? | ||
| ※現存率 53.3% (50%) | ||||||
| 旧赤坂区 | No. | 現存 | 所 在 地 | 標高(m) | 種 類 | 備 考 |
| 1 | × | 赤坂葵町 塀の北門 | 14.7053 | 測量課邸北ノ角石垣 | ||
| 2 | ○ | 赤坂氷川神社 | 華表 | |||
| 3 | × | 赤坂 浄土寺 | 9.1210 | |||
| 4 | ○ | 南青山7丁目路傍 | 27.7600 | 路傍 | ||
| 5 | × | 南青山 梅窓院 | 32.7387 | 石手水鉢 | ||
| 6 | × | 北青山 善光寺 | 34.3900 | 石塔 | ||
| 7 | × | 青山六道辻甲賀町壹番地 | 33.2702 | 新設石柱 | ||
| 8 | × | 元赤坂 赤坂離宮前門前 | 15.6700 | 旧鮫河橋路傍 | ||
| 9 | × | 元赤坂 紀伊国坂上 | 24.1000 | 紀伊国坂上溝際石柱路傍 | ||
| 10 | × | 赤坂元町 赤城神社 | 25.9700 | 駿ケ台赤城神社石華表 | ||
| ※現存率 20.0% | ||||||
| 他 | No. | 現存 | 所 在 地 | 標高(m) | 種 類 | 備 考 |
| 1 | ○ | 渋谷区東 宝泉寺 | 16.8800 | 境内南西路傍 | 移設 | |
| 2 | × | 広尾 広尾橋西詰 | 10.7900 | |||
| 3 | × | 渋谷区東 渋谷橋交叉点 | 13.4800 | 路傍 | ||
「三角点の探訪」はこちらからどうぞ!
GoogleMap 几号地図

157.赤羽橋の迷子しるべ石
一石橋迷子しらせ石標江戸時代も後半に入る頃この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでたた場合、町内が責任を持って保護ることになっていたので、付近の有力者
が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よい子の志るべ」、右側には、「志らする方」、右側には、
「たづぬる方」と彫り、上部に窪みあある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の
特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を
書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として
珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊
された。
28.有馬家化け猫騒動
44.赤羽接遇所(外国人旅宿)
31.お竹如来
78.瓢箪床
2.ヒュ−スケン事件
3.清川八郎暗殺

158.読売On Lineの麻布写真
159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
前項「読売On Lineの麻布写真」で見た「巨大地下壕」は、以前むかし、むかしで取り上げた防空壕であるが、
調べてみると防空壕というよりは、もっと大がかりで巨大な「地下壕」であることがわかった。
参考文献
レファレンス協力
160.続・猫塚−荷風の見た猫塚
前項の調査のために目黒の防衛庁防衛研究所を訪れたおり、庭に大きな石が二つ並んでいるのが見えた。その時はあまり気にしていなかったのだが、次に訪れた際、石の傍らに説明文が掲載されているのを見つけた。二つの石のうち一つは白っぽい台形のような形で名を「樊獪石(はんかいせき)」と呼ぶらしい。そしてもう一つは黒っぽくてねじれた円錐のような形であり、説明文には「猫石」と書かれていたので読んでみると、なんと赤羽橋有馬邸のものであることがわかった。
しかし塚に来るまでの光景を「私達二人を遺憾なく喜ばしめた」としつつ、いついまでも崖からの情景にたたずんだ荷風は、再び長い情景描写のあと、文は「私達は既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度破壊されたその跡がここに年を経てせっかく荒蕪の詩趣に蔽われた閑地となっている処おば、更になんらかの新しい計画が近いうちにこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私達はその事を予想して前もって深く嘆息したのである。」としてやっと見つけたパラダイスの運命を予感して深く嘆いている。
防衛庁防衛研究所−猫石説明文−この石は、芝赤羽橋の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
同地は、維新後の明治4年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、続いて明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治35年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門正面へこの石が移された。(海軍造兵廠は、大正12年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和5年9月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿弥作「有松染相撲浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。
161.麻布の石火矢試射
-付記-
参考文献
162.麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1
| @東京統制無線中継所 地図 |
| A本光寺から 地図 |
放送経路米太平洋岸カリフォルニア・モハービー地上局
(リレー1号に向けて1725メガサイクルで送信)
↓
リレー1号
(アメリカからの電波を4170メガサイクルに増幅)
↓
国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)
(直径20メートルのパラボラアンテナで受信)
↓
NHK中継車からマイクロウェーブ送信
↓
石尊山
↓
日立製作所日立研究所屋上(日立市)
↓
電電公社無線中継所(筑波山)
↓
東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)
↓(ケーブル)
NHK放送会館(内幸町)
↓
民放配信
<当日の放送スケジュール>※テレビ東京は1964年4月開局なのでありません| 放送局 | 放送開始時間 | 番組タイトル |
|---|---|---|
| NHK | 05:10 | 日米宇宙中継始まる(生) |
| 〃 | 08:40 | 日米宇宙中継始まる(生) |
| 日本テレビ | 10:25 | 太平洋越えてテレビ中継成功(録) |
| TBS | 05:20 | リレー衛星で日米初のテレビ中継(生) |
| フジテレビ | 10:40 | 日米テレビ中継成功す!!(録) |
| NET | 05:05 | 宇宙テレビ中継第1報(生) |
| 〃 | 08:35 | 宇宙テレビ中継第2報(生) |
| 〃 | 15:00 | 宇宙テレビ中継第1報(再) |
| 放送局 | 放送開始時間 | 番組タイトル |
|---|---|---|
| NHK | 19:00 | ※ケネディ大統領の暗殺と世界情勢 |
| 20:00 | ※ケネディ大統領をしのぶ | |
| 22:00 | ※日米テレビ宇宙中継の成果 | |
| フジテレビ | 19:30 | ※ケネディ大統領の死と今後の国際政局 |
| NET | 11:45 | ※ケネディの功績 |
| 放送局 | 放送開始時間 | 番組タイトル |
|---|---|---|
| NHK | 04:00 | ?(生) |
| 07:15 | ケネディ大統領の葬儀(生) | |
| 10:30 | アメリカの新戦略と日本 | |
| 日本テレビ | 06:40 | 故ケネディ大統領の葬儀(録) |
| 07:50 | ?(生) | |
| TBS | 11:00 | 故ケネディ大統領の葬儀(再) |
| 04:00 | ?(生) | |
| 07:40 | 弔鐘世界に鳴る(生) | |
| 11:00 | 故ケ大統領葬儀中継(再) | |
| フジテレビ | 08:05 | ケ前大統領の葬儀中継(生) |
| 10:40 | ケ前大統領の葬儀中継(再) | |
| 23:40 | ケ前大統領追悼ミサ中継(再) | |
| NET | 04:00 | ?(生) |
| 07:20 | ケ大統領葬儀(生) | |
| 16:00 | ケ大統領葬儀中継(再) | |
| 23:15 | ケネディと米国 | |
| 放送局 | 放送開始時間 | 番組タイトル |
|---|---|---|
| NHK | 19:00 | ※ケネディ大統領の死 |
| 10:30 | アメリカの新戦略と日本 | |
| フジテレビ | 23:40 | ケ前大統領追悼ミサ中継(再) |
| NET | 23:15 | ケネディと米国 |
| ●政治 | 総理大臣 | 池田勇人 | ●経済 | 大卒初任給 | 19,380円 |
| 米国大統領 | ケネディ、ジョンソン | 映画館入場料 | 350円 | ||
| ソ連書記長 | フルシチョフ | たばこ(ハイライト) | 70円 | ||
| 中国指導者 | 毛沢東 | 理髪料金 | 282円 | ||
| ●映画 | 大脱走 | 北京の55日 | 入浴料 | 23円 | |
| わんわん忠臣蔵 | 007は殺しの番号 | ●事件 | 吉展ちゃん誘拐事件 | 3月 | |
| ●音楽 | 見上げてごらん夜の星を | 坂本九 | 狭山事件 | 5月 | |
| 恋のバカンス | ザ・ピーナッツ | 三井三池炭鉱爆発事故 | 11月 | ||
| こんにちは赤ちゃん | 梓みちよ | 国鉄鶴見事故 | 11月 | ||
| 高校三年生 | 船木一夫 | ケネディ大統領暗殺 | 11月 | ||
| 東京五輪音頭 | 三波春男 | 力道山刺殺 | 12月 | ||
| ●テレビ番組 | 鉄腕アトム | 鉄人28号 | ●大相撲 | 大鵬 | 初、春、夏、秋場所優勝 |
| 狼少年ケン | 三ばか大将 | ●プロ野球 | 巨人 | セリーグ優勝 | |
| ロンパールーム | 三匹の侍 | 西鉄 | パリーグ優勝 | ||
| エイトマン | 花の生涯 | 巨人 | 日本シリーズ優勝 | ||
参考資料
163.麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その2
| B宮村公園坂上から(1964年) 地図 |
| C上記画像現在(2007年) |
マイクロウェーブ幹線創始の地
記念碑-碑文| 記念碑 |
昭和29年4月1日東京大阪間を結ぶマイクロウェーブ回線 がこの地を起点として開通した。
この回線は4000MHz帯を使用し周波数分割多重市外電話 360回線また放送用白黒テレビジョン信号を、周波数変調 方式により伝達するものであった。
無線による周波数分割多重方式は昭和15年米澤滋博士が 世界にさきがけ超短波によって実用化し無線の多重化技術 の基礎を確立したものである。
戦後黒川廣二博士を中心として諸先輩がこれを発展させ 今日の輝かしいマイクロウェーブ技術の進歩をみた。
いまやマイクロウェーブ回線は全国テレビジョン中継は もとより市外電話回線網の中枢をなしている。またこの マイクロウェーブ技術はわが国が開発した自主技術として 世界の最高水準を行くものである。
碑の詳細画像はこちらをクリック
<追記>
164.さよなら麻布の都電
昭和30年代中盤ころ、まだ乳児だった私はよく寝ぐずりをしたそうだ。そんな時に私の親は 宮村町にあった自宅から、わざわざ一の橋停留所附近まで都電を見せに行ったそうだ。不思議に 都電を見ると、すやすやと眠ってしまう癖のついた私を、その度におんぶして一ノ橋まで連れて行 ったという。しかしこの記憶はもちろん無い。そして私の記憶にはじめて登場する「都電」は、 決して愉快なものではなかった。
私が幼稚園に通っていた昭和37〜38年頃のある夏の日、近所のおじさんが自家用車で私と父を 「はぜ釣り」に連れ出してくれた。目的地はその頃はぜ釣りの定番の場所であった東雲である。 車は宮村町を出発してしばらく走り、仙台坂を下って二ノ橋から一ノ橋に向かう大通りに出た。 そこで忘れ物をしたことに気がついた運転手の近所のおじさんは、来た道を戻るため大通りの 都電軌道をまたいで反対車線にでようとした(当時ももちろんUターン禁止だったと思うが(^^;)。 車が都電軌道にさしかかった瞬間、けたたましい警笛にはっとすると、目の前に都電が迫っていた。 都電は急ブレーキで2メートルほど手前で停車し、事なきを得たが、
都電運転手の、
「バカヤロー!あぶないじゃないか!こっちは乗客を預かってんだ!」
っという怒声に、近所のおじさん運転手は、
「バカヤロー!こっちには子供が乗ってるんだ!」
っと切り返し、子供心にもいたたまれなくなった記憶が残っている。
当時、古川橋〜一ノ橋間には、
が走っていたが、この一ノ橋通過系統の他にも麻布には、4系統(五反田駅前〜銀座七丁目)一ノ橋経由
5系統(目黒駅前〜永代橋)一ノ橋経由
8系統(中目黒〜築地)一ノ橋経由
34系統(渋谷駅前〜金杉橋)一ノ橋経由
などが通っておりまた、乗り継ぎ停留所として、6系統(渋谷〜新橋)龍土町・六本木経由
7系統(品川駅前〜四谷3丁目)天現寺・日赤病院下経由
33系統(四谷3丁目―浜松町1丁目)六本木・飯倉経由
●赤羽橋●芝園橋3系統(品川駅前〜飯田橋)
●金杉橋2系統(三田〜曙橋)
37系統(三田〜駒込千駄木町)
などがあった。その中でも麻布十番商店街を擁し乗降客の多かった一ノ橋停留所は、一際長い停留所 だったようで、一ノ橋停留所を筆頭に麻布近辺は、まさに「城南の都電王国」であったとする回顧談もある。1系統(品川駅前〜上野駅前)
そんな都電も、道路の渋滞緩和政策から、4・5・8系統は1969年(昭和44年)3月、最後まで残ったドル箱 の34系統(渋谷駅前〜金杉橋)も1969年(昭和44年)10月25日を最後にして姿を消した。
<補筆>
34系統を走っていた物と同じ形の都電6000形(愛称一球さん)。上の画像と同じ6086の白黒画像
(この画像も安藤幸洋さんにお借りしています。)
大きい画像はこちらからどうぞ
天現寺〜渋谷間の都電の線路は元は東急玉電が埋設したもので、 1924年(大正13年)5月21日渋谷橋〜天現寺橋間に延長開業した玉電天現寺線は、1937年(昭和12年)上期に 玉電ビル(現在の東急百貨店東横店西館)工事による渋谷駅高架化工事にともない渋谷橋〜天現寺橋間は 玉電から分断さた。そして1938年(昭和13年)11月1日天現寺・中目黒線の経営は東京市に委託され、更に1948年(昭和23年) 3月10日からは東京都へと譲渡され正式に都電となった。
また昭和40年代前半には桜田通り(まだTV朝日通りというんでしょうか?)にも東急バスが運行されていた記憶があったが 曖昧だったので、櫻田町名主の忠兵衛さんに問い合わせると早速情報の提供があり、 桜新町・等々力〜東京駅を結ぶ路線であったことがわかった。忠兵衛さん感謝!また、古い事なのでよくわからない としながらも、
昭和26年 5月10日 等々力〜東京駅(狸穴町経由)運行開始 昭和31年 3月16日 都営バスと相互乗り入れ 昭和40年 3月 1日 経路変更(経路不明) 昭和53年 4月 1日 六本木経由 昭和28年 4月10日 駒沢から東京駅(天現寺経由) 昭和31年10月 1日 桜新町から東京駅(えびす・材木町経由) 昭和42年12月25日 桜新町から東京駅(首都高速3号線経由) 昭和54年11月22日 廃止 「材木町(NETテレビ前)」停留所は 昭和43年5月15日に「六本木六丁目」となりました。
という情報を即日提供していただいた「東急バス株式会社」さんにも謝辞を述べさせていただきます。
※(等々力〜東京駅は経路を目黒に変えて東急・都営相互運用で現在も運行されています。)
★麻布通過系統・停留所一覧
★運賃表(昭和37年10月現在)
系統 路線 総延長km 停留所 開業 廃止 4 五反田駅前〜銀座七丁目 8.088 五反田駅前-白金猿町-ニ本榎-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋-大門-浜松町1丁目-新橋5丁目-新橋-銀座7丁目-銀座4丁目-銀座2丁目 S8.11 S42.12 5 目黒駅前〜永代橋 10.243 目黒駅前-上大崎-白金台町-日吉坂上-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-芝公園-御成門-田村町4丁目-田村町1丁目-内幸町-日比谷公園-馬場先門-都庁前-鍛冶橋-京橋-桜橋-八丁堀-越前堀-永代橋 S2.3 S42.12 6 渋谷駅前〜新橋 6.124 渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-南町-高樹町-霞町-材木町-六本木-今井町-福吉町 -溜池-虎ノ門-南佐久間町-田村町1丁目-新橋 T14.6 S42.12 7 品川駅前〜四谷3丁目 8.321 品川駅前-高輪北町-泉岳寺-伊皿子-魚籃坂下-古川橋-四ノ橋-光林寺-天現寺橋- 広尾橋-赤十字病院-霞町-墓地下-南町1丁目-青山1丁目-権田原-信濃町- 左門町-四谷3丁目 T8.9 S44.3 8 中目黒〜築地 10.209 中目黒-下通5丁目-恵比寿駅前-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋- 古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-飯倉4丁目-飯倉1丁目-神谷町 -巴町-虎ノ門-霞ヶ関-桜田門-日比谷公園-数寄屋橋-銀座4丁目-三原橋-築地 S2.3 S42.12 33 四谷3丁目〜浜松町1丁目 5.753 四谷3丁目-左門町-信濃町-権田原-青山1丁目-新坂町-竜土町-六本木-三河台町 -飯倉片町-飯倉1丁目-神谷町-御成門-浜松町1丁目 T13.2 S44.3 34 渋谷駅前〜金杉橋 6.372 渋谷駅前-並木橋-中通2丁目-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋-古川橋 -三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋 T13.5 S44.10
種類 片道普通券 早朝割引 回数券 通勤定期 通学定期 都電 15円 25円 100円 660円 360円 無軌条 20円 30円 95円 710円 390円
※無軌条とはトロリーバスです。
※早朝割引は往復運賃です。
※回数券は都電7枚・無軌条5枚の料金です。
※定期は1ヶ月の金額です。(通学は中学生以上の料金です。)
165.篤姫行列の麻布通過
| 薩摩藩渋谷藩邸跡地 |
| 薩摩藩士により建てられた常盤松の碑 |
常盤松の碑−碑文
篤姫行列の行程スライド・ショー
166.宮村町の千蔵寺| 広尾稲荷神社 |
・開山の祐海法印は1665年(寛文5年)入寂などの記述もあり、敷地の見取り図もあるので大変に参考となった。
・本尊は、阿弥陀如来木像・毘沙門天木像(聖徳太子作)・観世音銅立像
・延命地蔵堂があった
・社地は21坪で門前家屋が総間口13間半
・「御府内寺社備考」などをご紹介頂き、その中では宮村町の千蔵寺は川崎に移転したのではなく、もともと川崎のその地にあった「清宝院」と合併して いる事が分かった。
・「東京都社寺備考」
・「大日本寺院総覧」
・「天台宗寺院大観」
・「全国寺院名鑑」
・「全国寺院名鑑」
・「川崎市史 別編 民俗」
| 西暦 | 元号 | 記載内容 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1665年 | 寛文5年 | 5月16日開祖祐海入寂 | 御府内備考続編 |
| 1678年 | 延宝6年 | 10月、麻布狸穴の寺地が甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地となるため、363坪の代地を武州豊島郡麻布宮村に拝領し引き移る | 東京市史稿 |
| 1724年 | 享保9年 | 千蔵寺 麻布宮村町稲荷社別当となることを寺社帳に登録する | 東京市史稿 |
| 1820年 | 文政3年 | 5月、千蔵寺門前町屋1軒の撤去を願い出る | 東京市史稿 |
| 1883年 | 明治16年 | 4月、宮村町47番地天台宗千蔵寺、同町75番地天台宗円福寺は、いずれも南豊島郡渋谷村の宝泉寺(渋谷区東2丁目)住職が兼務 | 東京都公文書館資料 |
| 1884年 | 明治17年 | 「厄神鬼王」を神奈川県藤沢市本町1丁目 入町厄神社に分神し明治24年に神殿を建立 | インターネット情報 |
| 1897年 | 明治30年 | 麻布宮村町四十七より川崎市中瀬町三に移転 | 港区神社寺院一覧 |
※別当神社の役職の一つに「別当(べっとう)」と呼ばれる役職があった。「別当」とは神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶 のことで、神僧や社僧とも言われた。江戸時代以前には伊勢神宮以外の多くの神社に別当が置かれ、僧侶による神社祭祀・神前読経など が一般化。神社における別当の権威はときに本職の神主をもしのぎ、神社の仏教的色彩はますます強くなっていった (神仏習合:しんぶつしゅうごう)。(資料参考:築土神社別当成就院楞厳寺サイト)江戸初期、麻布宮村町に幕府により移転された千蔵寺は、移転時幕府との約束により元地の二割増の敷地を拝領するはずであったが、 実際に移転してみると敷地は二割減となってしまった。その後宮村町の千蔵寺は、宮村町稲荷(これが広尾稲荷の事と思われる)の別当となり いく度かの火事災害を乗り越え再興された。しかし寺の経済状態はあまりよくなかったと思われ、 文政3年、門前町屋1軒の撤去を願い出た文章には「寺が貧乏で建て替え費用が工面できない。荒れ果てた空き家のまま放置するのも 物騒なので壊したい」などと書かれ当時の寺の経済状況をうかがう事ができる。
参考文献・「御府内寺社備考」第二冊 天台宗
・「東京都社寺備考」 寺院部 第1冊 天台宗之部
・「大日本寺院総覧」上
・ 港区神社寺院一覧
・ 藤沢市郷土誌「わが住む里第38号」
・ 東京都公文書館マイクロフィルム資料
・ 東京市史稿
・ 新修港区史
・ 麻布区史
・ 近代沿革図集
・ 他。
レファレンス協力・広尾稲荷神社
・千蔵寺
・東京都公文書館
・都立中央図書館
・港区郷土資料館
・品川区立品川図書館
・品川歴史館
・神奈川県藤沢市立総合市民図書館
・神奈川県立川崎図書館
167.夜窓鬼談の大入道今回は明治22年に漢学者・南宋画家の
右手白いビルあたりに時の鐘があった。坂の上方は正則高校。さらにあがると増上寺涅槃門があった芝高校付近。 そしてさらに上ると広い原っぱとなっていて、明治まで小屋や店が軒を並べる繁盛地であったという。 芝切通し付近 石川鴻斎 に よって書かれた漢文の怪談集、「夜窓鬼談 」の中の”大入道”という一編をご紹介。
麻布のある商人が、ある夜涅槃門の前を通り過ぎると、青黒い顔をし黒衣を着た僧が路傍に佇んでいた。商人が不審そうに見 ていると、突然怪しげな気配がして寒気に襲われた。見ると僧が鉢のような頭をし、 輝く三つ目の大入道となって首を延ばし、商人を舐めまわした。驚いた商人は何度も転びながら逃げてやっと家までたどり着いた。 翌日商人は鍛冶屋にこの話をすると、元侠客で度胸のすわった鍛冶屋は商人の仇を討とうと、その日の夜中に手に金槌を持って涅槃門 に行った。そして長い時間待ったが何も現れないので「妖怪、出て来い!退屈で困っておる!」と叫んだ。するとどこからともなく身の丈90cmほどの 小僧が姿を現し、3つの目で鍛冶屋をにらみつけ、手招きをする。怒った鍛冶屋は金槌を振り上げて小僧を打とうとしたが、 小僧は走って門の庇 に飛び乗りそこに座って大笑いした。ますます怒った鍛冶屋は金槌を振り上げたが庇が高くて届かない。そこで石を投げたが当たっても 小僧は平然としている。しかたがないので鍛冶屋はじっと小僧を見つめて下で待った。やがて、夜が明け始めると小僧は次第に小さくなり、 開けきると姿は無くなってしまった。
鍛冶屋は庇を見つめているだけであった。
この話の舞台となっている涅槃門は、現在の芝高校付近にあった増上寺の涅槃門で、さらに上がると現在の給水所あたりは広い原っぱであったという。この話の導入部分で作者は、
芝の三緑山(増上寺)の北部一帯は樹木が鬱蒼と生い茂り、僧坊もほとんど無い場所であった。天保の末頃、世間に大入道が出て人を脅す という流言が広まり、日没後は行き来する者も稀であった。そのため大入道を見たものはいなかった。
−夜窓鬼談現代語訳・大入道より抜粋−
としている。また港区近代沿革図集は、涅槃門のあたりを、
〜涅槃門は切通坂のなかばにあって、みだりに通り抜けが出来ず、まがりくねった細道であった〜
としてこの地の寂しげな様子を表しているがいるが、さらに「切通し」については、港区近代沿革図集には、
切通しの上は広い原で軍談師、売卜者、浄瑠璃かたり、賭博師、豆蔵、噺師、酒売り、菓子売りなどがあって賑わったが 今は増上寺山内に囲い込まれた。(増補改正万世江戸町鑑)
この地は赤羽とともに栄えた地で、見世物・浄瑠璃・芝居・香具師・古着屋等が並び、いまの浅草公園のようであったが、 維新後撤去された。(東京案内)
などとあり、坂上の原っぱ付近は栄えていたが、少し下った涅槃門付近はとても寂しい所であったものと考えられる。
夜窓鬼談は明治22年〜27年にかけて出版された怪異奇談の短編集で上下巻で86話からなる漢文の著書だが、 多少の例外を除いて日本の怪談・奇談が題材とされている。またこれらを渋沢龍彦や小泉八雲などが底本にしたことでも著名である。 作者の石川鴻斎は清国大使館などにも出入りし、清国官吏などとも交流を深めたが、1918年(大正7年)9月13日、静岡県磐田市で86歳の生涯を終え、 同所省光寺に仮埋葬された。そして、その後の同25日には三田小山町の龍原寺(オーストラリア大使館向い)にて本葬が営まれ、墓所に葬られた。
石川鴻斎が眠る三田小山町の龍原寺
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168.麻布七不思議の定説探し
今までに数度「麻布七不思議」を取り上げたが、今回は不思議話の内容ではなく、そもそも麻布七不思議 って何だろうという素朴な疑問を追ってみたい。
麻布七不思議は多くの書物が取り上げていると思っていたが、よく調べてみると麻布の不思議話は数多い ものの、七不思議として定義されているものは意外に少ないことがわかった。そして定説となったと思い 込んでいた江戸時代の書物に「七不思議」と定義されたものは、見つけることが出来なかった。 これは「七不思議」という言葉自体が明治期に西洋文化が取り入れられたさいに「the seven of wonders of the world」 が伝わったときにその訳語として表されたというのが定説のようだ。Wikipediaによると、
麻布総合支所B1壁面に描かれた七不思議
七不思議(ななふしぎ)は、7つの不思議なものや現象を数え上げたもの〜また、エンカルタによると古代ギリシャ・ローマ人が驚異の対象とした7つの建造物を世界の七不思議 とし、
〜紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンの書いた 「Επτ? θα?ματα του αρχα?ου κ?σμου (世界の七つの景観)」の中で 景観と訳されている {lang|el|θα?ματα}} とは、ギリシア語で「必見のもの」といった 意味である。つまり、本来は「怪しい」「ありえない」といった意味は含まれていない。〜
〜しかし、英語では「Seven Wonders of the World」、日本語では「世界の七不思議」などと 訳されたた〜
狸橋と由来碑 1.エジプト・ギザのピラミッドと定義している。
2.バビロンの空中庭園
3.オリンピアのゼウス神像
4.ギリシャのアルテミス神殿
5.ハリカルナッソスのマウソレイオン
6.ロドス島のコロッソス
7.ファロス島の灯台
しかし一方では日本には古来から、
七転び八起きなどという言葉があり、「七」と言う数字には、特別な意味合いが込められているような気がする。
七難隠す
七転八倒
なくて七癖
七曲 ななまがり
七世転生
このように、本来の意味とは違うニュアンスとなって広まってしまった七不思議だが、麻布においての七つを特定するのは さらに難しい。下記の表は麻布の不思議話を「七不思議」または付随して「その他の不思議話」 と定義して掲載されたものを図書館のレファレンス等を利用して集めたものだが、個人の主観、 年代などにより大きく選定内容が変わっている。表中で、 7.一本松と11.秋月の羽衣松、6.永坂の脚気石と9.かなめ石等は同じものを表していると伝えられ(一本松と秋月の羽衣松が 同義というのには個人的には疑問を感じるが。)さらに七つの選択を困難にしている。
区が設置した「がま池」由来碑
また、書籍8.東京百話は黒沢明監督の師にあたる映画監督の山本嘉次郎が書いた「麻布七不思議」を参照しているが、 これによると「くらやみ坂のオイワシコイ」、「なんとか様(大名邸)の泣き人形」など山本嘉次郎のみが伝える不思議話が 掲載されており、これに至ってはその話の内容も不明である。
またこの表を別の切り口で見ると、
・麻布総合支所B1壁面と続・麻布の名所今昔
・鳥居坂警察署誌と郷土史家中山狐村氏説
こちらは、マンション管理会社が設置した
「がま池」由来碑
これには公開が明記されているが.....
では麻布七不思議の定義が完全に一致しており、前者が後者を底本としていることが伺える。そしてこのような事を調べる上では 「バイブル」ともいえる麻布区史は、第五章「雑祖」の冒頭で麻布七不思議を取り上げているが、〜ただその擧ぐるところに各異説があって、書物により口碑により夫々異聞がある。従ってこれを合計すると十数不思議、否二十五六 不思議になるのである。〜としながら「東都新繁昌記」、「東京風俗誌」、「郷土史家中山狐村氏説」の三説を取り上げ、 あえて自らは七つの定義を避け、18の不思議話を披露するに止まっている。
※ 名称をクリックすると詳細説明が、現存の○△×をクリックすると地図がご覧になれます。
麻 布 七 不 思 議 の 定 義 と 現 存 平成20年9月現在 名 称 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 七不思議回数 その他回数 計 備 考 麻布総合支所壁面 東京風俗誌 東都新繁昌記 江戸の口碑と傳説 郷土史家中山狐村氏 鳥居坂警察署誌 麻布区史 東京百話 続・麻布の名所今昔 十番わがふるさと 港むかしむかし 江戸の闇・魔界めぐり 麻布六本木歴史散歩 「お化け」生息マップ 発行年 明治34年 大正7年 昭和6年 昭和6年 昭和16年 昭和45年 昭和49年 昭和55年 不 明 平成10年 平成17年 平成17年 No. 七不思議定義数 現存 7 7 7 7 7 7 18 7 7 7 7 8 7 7 麻布七不思議と定義されたもの その他の不思議 0 0 3 6 ? 0 0 20 3 10 0 8 0 七不思議と定義されたもの以外の不思議話 1 柳の井戸 ○ ● ● ○ ● ● ● ● 6 1 7 善福寺境内 2 狸穴の古洞 × ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 10 0 10 アメリカンクラブ下斜面近辺? 3 広尾の送り囃子 × ● ● ● ● ● ● ● ○ ● ● 9 1 10 広尾橋〜天現寺近辺 4 善福寺の逆さ銀杏 ○ ● ● ○ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 12 1 13 善福寺境内 5 蟇 池(がま池) △ ● ○ ● ● ● ● ● ○ ● ● ● 9 2 11 がま池・蝦蟇池 現在見学不可 6 永坂の脚気石 × ● ● ● 3 0 3 かなめ石と同義 7 一本松 ○ ● ● ● ● ● ● 6 0 6 五代目。別名冠の松とも秋月邸の羽衣の松とも 8 六本木 × ● ● ● ● ○ ● ● ● ● 8 1 9 六本木 9 かなめ石 × ● ● ● ● ● ● ● 7 0 7 六本木5-16-47路傍にあった 10 釜なし横丁 × ● ● ● ● ○ ○ ● ○ 5 3 8 絶江坂近辺 落語に登場 11 秋月の羽衣松 × ● ● ● ● ○ ● 5 1 6 一本松と同義との節も 12 東町の鷹石 △ ● ● ● ○ ● ○ 4 2 6 大田区磐井神社に烏石として現存 13 狸穴の狸蕎麦 × ● ● ○ ○ ● 3 2 5 狸橋に由来あり 14 狸穴の婚礼 × ● ○ ○ 1 2 3 狸穴 15 大黒坂の猫又 × ● ○ ○ 1 2 3 大黒坂 16 我善坊の大鼠 × ● ○ ○ ○ ● 2 3 5 我善坊の猫又ともいわれる 17 古川の狸蕎麦 ○ ● ○ ○ ● 2 2 4 狸橋近辺 由来碑あり 18 谷町の遊女屋敷 × ● ○ 1 1 2 不明 19 二本松の赤子 × ● ○ 1 1 2 不明 六本木の旧二本松藩主 丹羽邸か? 20 白金御殿の一本足 × ● ○ 1 1 2 不明(白金御殿は麻布御殿と同義) 21 七色椿 × ○ ● ○ ● ● ○ 3 3 6 西町旧ベネズエラ大使館近辺。昭和12年枯死 22 古川の狸囃子 × ● ○ 1 1 2 古川端 23 我善坊の僧 × ● 1 0 1 我善坊谷 24 狐しるこ × ○ ● ○ ○ ○ 1 4 5 四ノ橋辺 25 紅毛久助の墓 ○ ○ ○ 0 2 2 墓所は光林寺 アメリカ通訳 ヘンリー・ヒュースケン 26 村上喜剣と寺坂吉衛門 ○ ○ 0 1 1 曹渓寺 27 狸坂の狸 × ○ 0 1 1 別名 旭坂 28 狐坂の由来 × ○ 0 1 1 別名大隈坂 29 こうのとりがつたえた霊薬 × ○ ○ 0 2 2 麻布長谷寺 30 お亀団子 × ○ ● ○ ○ 1 3 4 永坂辺 落語としても有名 32 お竹大日如来 ○ ● ○ 1 1 2 心光院 33 寒山拾得の石像 × ● ○ 1 1 2 秋月佐渡守邸(現麻布中学)にあった石像 34 夜叉神の石像 ○ ● ○ 1 1 2 麻布長谷寺 35 陰陽石 × ● ○ 1 1 2 良縁、安産にご利益があった。がま池付近 36 烏帽子形の石 × ● ○ 1 1 2 秋月佐渡守邸(現麻布中学)にあった石像 37 麻布のキ(気・黄)が知れん × ○ 0 1 1 むかし、むかし4-55参照 38 くらやみ坂のオイワシコイ × ● 1 0 1 不明 39 なんとか様(大名邸)の泣き人形 × ● 1 0 1 不明 ● 七不思議として取り上げられた話 ○ その他の不思議話
上記の表から登場回数の多い不思議話を回数順で、書籍で定義された「七不思議」、「それ以外」に分類してグラフ化したのが下記の図である。
一本松由来碑
@は表の項目そのままで、Aは同義項目を合算したもの であるが、定義としてはAのほうが現実に近いと思われる。また一部の順序に不整合があるが、これは 私見で判断した。これをもって麻布七不思議の定説!などと定義するつもりはまったくないが、ご自身が定義する七不思議の参考にはして頂けると思う。
@ 著書に取り上げられた回数別の麻布七不思議Best7(表順) (七不思議基準) 順位 名称 現存 七 他 計 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 1 善福寺の逆さ銀杏 ○ 12 1 13 2 狸穴の古洞 × 10 0 10 3 蟇 池(がま池) △ 9 2 11 4 広尾の送り囃子 × 9 1 10 六本木 × 8 1 9 5 かなめ石 × 7 0 7 6 柳の井戸 ○ 6 1 7 七不思議 7 釜なし横丁 × 5 3 8 8 秋月の羽衣松 ○ 5 1 6 その他の不思議話 9 東町の鷹石 ○ 4 2 6 10 七色椿 ○ 3 3 6 A 著書に取り上げられた回数別の麻布七不思議Best7(同義項目合算) (七不思議基準) 順位 名称 現存 七 他 計 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 1 善福寺の逆さ銀杏 ○ 12 1 13 2 一本松(秋月の羽衣松) ○ 11 1 12 3 狸穴の古洞 × 10 0 10 かなめ石(永坂の脚気石) × 10 0 10 4 蟇 池(がま池) △ 9 2 11 5 広尾の送り囃子 × 9 1 10 六本木 × 8 1 9 6 釜なし横丁 × 5 3 8 7 柳の井戸 ○ 6 1 7 七不思議 8 東町の鷹石 △ 4 2 6 9 七色椿 × 3 3 6 その他の不思議話 10 狸蕎麦 ○ 3 2 5
この項をもとに今まで何気なく知っていた「麻布七不思議」をご自身で新たに定義して頂くのも宜しいかと。また根岸鎮衛の耳嚢が 最近のブームで「新耳嚢」として新しい感覚で定義されているのと同じく、「新・麻布七不思議」を定義してみてみるのも一興かとおもいます。
蛇足ですが私が考える「新・麻布七不思議」は、
1.六本木ヒルズ毛利池の水源
2.十番納涼まつりのマナー
3.四の橋近辺の古川の鯉
4.がま池の公開
5.元麻布ヒルズの形状
6.麻布山地下壕
7.有栖川公園の蛍養殖
スミマセンm(__)m、趣旨がちょっと違いマシタ.....。
169.麻布の句・川柳・地口・言回し・唄
麻布近辺では、昔から色々な句・川柳・地口・言回し・唄などが伝えられてきた。今回はその一部をご紹介
★麻布句・川柳・地口・言回し集・唄
・狸坂くらやみ坂や秋の暮 岡本綺堂
・白菊か夜は麻布の黄が知れぬ 市川団十郎
・うぐいすをたづねたづねて阿佐布まで 松尾芭蕉
・櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛
・気が知れぬ ところ坂まで 長いなり
・長袖の命短く殺されて、やどにふたりが寝つ起きつ待つ
(107.堀田屋敷の狐狸退治)
・三輪くされ定めて場所も藪医者の、はて珍しき狐(くは)たき討ち哉
(107.堀田屋敷の狐狸退治)
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以下85.円生の見た麻布 から
・弔いを山谷と聞いて親父ゆき、麻布と聞いて人だのみ
・繁盛さ狸の穴に人が住み
・麻布の祭りを本所で見る
・一本は松だが六本きが知れず
・から木だか知れず麻布の六本木
・火事は麻布で木が知れぬ
・ねっから麻布で気が知れぬ
・火事は麻布で火が知れぬ
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90.芳川鎌子のその後
・「千葉心中」--- 淡路美月
ああ春遅き宵なりき−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
恋に悩める貴人(あでびと)の
真白き指に輝ける
ダイアの指輪憂いあり
都に浮き名うたわれし
二人の胸に秘めらるる
恋の絆のからみ糸
線路の錆と血を流す……。
・更科の蕎麦はよけれど高稲荷
森を眺めて二度とこんこん
・麻布長谷寺に清水観音の開帳あり、梅窓院のうしろより田の中の
溝をこゑて来るとて蛙飛ぶ田道あぜ道清水のお開帳へと心はせ寺
・寒山が拾得きたる絵姿は医者でもあらず茶坊主てもなし
・年礼のかりの一つらかへるなり後なが先にかうがいのはし
春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
・やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山
蜀山人(大田南畝)
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永坂更科布屋太兵衛 碑
・唐崎も 麻布も今は やもめなり 古川柳
・十番の 流れ 金杉橋に 出る 古川柳
・更科と 月を見おろす 高稲荷 古川柳
・鳥居坂 狐うなぎの 近所也 古川柳
・十番を はいて小栗は 碁盤なり 古川柳
・春麻布 永坂布屋 太兵衛かな 万太郎 (久保田万太郎)
・一筋の 枝も栄へる 麻布山 古川柳
・十番のわきに子捨てるやぶもあり 古川柳
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冬の夜を語る麻布の七不思議 句佛
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近隣
・赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波
・商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり
・人はみな 尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波
・湯も水も火の見も有馬 名がたかし
・火の見より 今は名高き 尼御前
・名からして江戸っ子らしい源氏綱
・あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂
・江戸っ子に してはと綱は 褒められる
・氏神は八幡と綱申し上げ
170.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その3−明かされた壕掘削−
二度に渡りお伝えした「麻布山の巨大地下壕」だが、前回調査以降にわかったことを途中経過ながらご紹介。
むかし、むかし記事作成のため新しいネタをインターネットで検索しているときに、今まで一度もヒットしなかった サイトが見つかった。そのサイトは戦史研究をする会の会報が掲示され、千葉県館山にあった「赤山地下壕」 を会のイベントとして訪問した際の見学紀を掲載したものであった。「特別投稿1.驚きと悲しみの館山紀行」 と題されたその中の文章に、
〜私が麻布で海軍の壕掘りを手伝っているときに〜
という文章があり、興味をひかれたので早速会報の発行元に連絡を入れさせて頂いた。会の名前は 「日吉台地下壕保存の会」といい、 太平洋戦争時に海軍の連合艦隊司令部などとして使用された日吉の慶応高校一帯にある地下壕 の見学会等をされている会であった。文章はネットに掲載されていたのはその会の会報2004年 7月16日第71号であった。そして会の顧問をなされている白井厚氏により書かれているので、さっそく 白井氏へのコンタクトを会の方にお願いしたところ、白井氏 の連絡先をお教えいただき、早速連絡させて頂いた。すると白井氏とは 慶応大学名誉教授の白井厚先生 であることが判明し、正直に言うと、少々ビビッてしまった。しかしここで諦めては先に進めないので、メールで麻布山地下 壕調査の趣旨と現状をお話すると、白井先生は研究室のある三田校舎での面会約束と2冊の本を紹介して下さった。
1冊は私家版として発行された「麻布学園234会著−オレたち終戦派」で、もう1冊は白井先生が体験した 勤労動員時の様子も書かれている「白井厚著−大学とアジア太平洋戦争」である。どちらも麻布山地下壕の掘削体験が語られた 貴重な資料だが特に「オレたち終戦派」には当時麻布中学3年生であった白井先生と同級生たちの戦争体験、 特に昭和20年8月1日から15日までまで勤労動員された麻布山地下壕の短期間ではあるが貴重で生々しい体験が多く語られていた。(他に、安立電気での作業・有栖川公園防空壕掘削体験 などもあり)
内容は個人別の体験談で、
●〜下士官から「この戦争は日本は危ない」などと聞かされ、〜(山口冨成氏−勉学の意欲そがれてP90)著書は1990年の出版時に、当時を回想して書かれているようだがその内容は豊富で、数多くの地下壕体験談 が生々しく語られている。(地下壕関連だけでも18あまりの証言が書かれている。)
●〜私の奉仕は三人一組の重いリヤカー運搬で(背の高い計9人従事)、隧道入り口付近で製造するコンクリートブロック(隧道アー チの基礎台で一個四十キロ)3個を仙台坂付近にあった主要隧道への連絡坑道掘削入り口現場まで、麻布十番のガレキだけを残す焼け野原の曲がりくねった険路三キロほどを一日四、 、五回往復する重労働だった〜(花井清氏−本土決戦下の中学生勤労動員P92)
●〜われら三年生が働く先となったのは、 麻布十番の外れの台地に、海軍の地下壕を作る作業であった。食糧不足で力仕事もできぬ 私たちの担当したのは、コンクリートのなかに埋め込む鉄筋作り。〜(大西将夫氏−地下壕掘りP114・115)
●〜この仕事は本土決戦に備えて海軍がつくっていた地下壕建設の手伝いで、われわれが割 り当てられた所は、麻布十番通りを六本木へ向かって進んだ左側、南山小学校の付近であ ったように思う。地下壕はトンネルを掘った後、コンクリートブロックで枠組みをしてい たようで、当時あまり背丈の大きくなかった私は、生コン製造の班にまわされた。海軍の 水兵さんの指揮で生コンの原料を必要量混合器へ投入する役目であったが、あまり若くな い水兵さんは優しい人で、力仕事はそれほどやらされず、つらい仕事ではなかった。〜(森田宏氏−不発の焼夷弾P116・117)
●〜この大規模な防空壕は、当時霞ヶ関にあった海軍省が米軍の日本本土上陸に備えて、長野県松代(当時その地に大本営を移転する計画が準備中であった)へ退却するまでの、抗戦指導用の後方基地として掘削していた。 麻布十番に向かって左は海軍省(仙台坂の台地)右は陸軍省(鳥居坂の台地)のそれぞれの防空壕であったが、 海軍省がダイナマイトや土木機械を活用して掘削しそのあとをセメントで固めていたのに対して、 陸軍は、ツルハシやシャベルと坑木で壕を掘り進めていたのが対照的であった。これは私たち の焼け跡整理の動貞現場がちょうどこの両防空壕建設の前面であったために、この海軍へ動員 される直前に、毎日状況を観察していた事から承知していた。そんな事があってから二、三日後、 われわれは運命の八月十五日終戦の日を迎えた。〜(岩田整氏−学徒勤労動員の1日P146〜147)
(上記すべて「オレたち終戦派」より抜粋)
また、書籍検索すると白井先生の監修で「学び・調べ・考えよう 日吉・帝国海軍大地下壕」 という本があり、こちらも内容が日吉台地下壕の事とはいえ、壕の掘削工事開始時に周辺の建物強制疎開が行われたこと等、 大変に参考になった。
そして面会当日、正門から研究棟にはいると研究室前の談話室に教授は秘書の方とすでに到着されており、挨拶の後早速お話を伺った。 しかし、素人インタビューアーの悲しさで、白井先生が少し麻布の周辺歴史情報に興味を持たれる度に話がそちらにそれてしまい、十分に お話を伺うことが出来なかった。しかし、その中で、 善福寺側で掘り出した土砂をダンプカーにのせてわざわざ飯田町(現在の飯田橋JR貨物本社近辺)まで 捨てに行かれた体験、その作業中に飯田橋駅に機銃掃射を受けた列車が入線してきた話等々、貴重で 生々しいお話を伺う事が出来た。私の後に新聞記者のインタビューが控えていたので、お約束のは1時間であったが、 気がつくと時間を大幅にオーバーして1時間半以上が経過していたので、心残りながらもインタビューを終わらせた。 さらにその席で白井先生は、数日後に控えている会合で会う予定の麻布中学の同級生にも壕の事を聞いていただける との事で、感謝を述べてその場を辞した。そして数日後、ご連絡を頂いたが、残念ながら著書以上の情報は得られなかった との事であった。このようにして少なかった地下壕情報に突然明かりが差し始めたが、書籍検索を続ける一方で、 別の視点である「地元在住の証言者探し」も並行して行おうと、改めて決意しはじめた。そのご紹介は次回「確定された宮村側入口」にて。
※ 数多くの麻布山地下壕掘削体験談などが掲載された「麻布学園234会著−オレたち終戦派」ですが私家版のため、都内では「麻布高校図書室」 、「都立中央図書館(現在改装中で閲覧は?)」、「区立みなと図書館書庫」にしか在庫が確認されていません。
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参考文献
・オレたち終戦派−麻布学園234会著
・大学とアジア太平洋戦争−白井厚著
・フィールドワーク 学び・調べ・考えよう 日吉・帝国海軍大地下壕−白井厚監修・日吉台地下壕保存の会著
・証言太平洋戦争下の慶応義塾 −白井 厚・編
・旧制高校生の東京敗戦日記−井上太郎著
・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験−港区戦争・戦災体験集編集委員会
・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験2007−港区戦争・戦災体験集編集委員会
・東洋英和女学院百年史−東洋英和女学院百年史編纂実行委員会
・東洋英和女学院120年史−東洋英和女学院120年史編纂実行委員会
・本土決戦準備1(関東の防衛)−防衛庁防衛研修戦史室著
・小説 日本本土決戦−檜山良昭
・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
・東京大空襲・戦災誌−東京大空襲・戦災誌編集委員会
・太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区域図(新修港区史付図)
・Wikipedia「東京大空襲」画像(空襲をうける東京市街)
<関連項目>
2.防空壕
159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )
171.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その4−確定された宮村側入口−
前回白井名誉教授へのインタビューを期に、「地下壕」の目撃者を当時の成人に近い 80歳台としていたものを、それまでは思ってもいなかった白井先生と同年代で現在70台中盤から 後半の方の探索へと対象者を広げようと考えた。すると以前読んだ 佐々淳行著六男二組の太平洋戦争 に登場する南山小学校の方たちがほぼ近い年代である事を思い出し、文中に掲載されている卒業写真と お名前から手がかりを探してみた。するとその中に現在も宮村町にお住まいの方が見つかり、 早速インタビューさせていただいた。さらに現在宮村町にお住まいの方も見つかったのであるが、 その中の一人はなんと60歳くらいで戦後、昭和30年代前半に壕への侵入をした体験をお持ちであった。 これらに加え、壕の存在を知っているかもしれない方を数名紹介していただいたのでそのインタビュー内容をご紹介。 なを、今回の壕体験者探しにあたっては、私の小中学校の同級生で唯一宮村町にお住まいの「K氏」に大変にお世話になった。
・証言者A氏(終戦当時15歳)当時十番通りに住まいがあったが昭和20年5月の空襲で罹災。賢崇寺の私設防空壕で一夜を明かし、南山小学校に 避難。その後、西町仮住まいを経て宮村町に居住。宮村公園斜面上に2本の防空壕入口があった。しかし それは斜面上のお屋敷のもので個人用であった。また山水舎付近に大掛かりな地下壕の入口があり、トロッコ の線路が通り付近まで出ていた。そして通りの反対側には土砂が積まれていた。詳細はわからないが、軍の機密 と聞いていたので、あまり近寄らなかった。・証言者B氏(帰還時26歳)品川区五反田生まれ。戦争中は近衛師団工兵として中国北東部〜フィリピンと転戦。昭和21年帰還。 以降宮村町居住。帰還直後宮村公園上には2本の壕入り口が残っていた。中に入った事はないが、善福寺 までつながっていると噂があった。山水舎近辺の入口は知らない。・証言者C氏(昭和2年生まれ)戦前より宮村町在住。他界された弟さんが佐々氏同級生。戦争中は中国に出征。帰還後も宮村町在住だが 壕の話は聞いた事がない。・証言者D氏(終戦当時11歳)祖父の代、明治期より宮村町に在住。昭和19年南山小学校の集団疎開で栃木県佐野市に疎開。帰京は20年10月。 浜松町で電車を下りると、ホームから南山小学校の煙突が確認できた。壕へは昭和20年秋頃に入った。 現在の谷沢ビル奥壁面最左に1本と、さらにその右手に1本の入口があった。左手壕入口は、奥行き70〜80mほどか? 昭和20年春にご自身の生家・工場も空襲により焼失。 ・壕の通路は幾重にも折れ曲がっていた。そして、 入ってすぐ左手に20畳位の広い部分があり、部屋のようであった。 自身は外光が届く範疇(多分30〜50m)までしか入った事はないが、更に奥があった。・証言者E氏(昭和22年生まれ)
★ご自身の体験として、
- 壕入口近辺は強制疎開で空いていた。
- 昭和20年秋に壕内入った。罹災したのでその中に住もうという人もいた。
- 一本松近辺までは堀進んでいた。
- 壕入口が水がはけるように少し勾配がついていた。
- 入口は2本あって中でつながっていた。
- 戦後、危険なので穴の入口をを2度くらい塞いだ。
- 陸軍が掘削した鳥居坂壕については聞いた事がない。もしあれば最近まで存命していた雇い人などから 聞いた事があるはずだ。
- 中の部屋は少なくても2つ以上はあった。
★聞いた話として、
- 工事調査は19年、自分たちが疎開後から始まった。20年春から本格的な掘削が始まった。
- 地方から徴用された方が南山を宿舎としていた。
- 陸軍ではなく海軍が掘っていた。
- ここだけでなくいくつかを掘っていた。
- 従業員も掘削に加わった。手彫りだった。粘土質なので水の心配がなかったのであまり強度の補強は 必要なく掘り進めた。
- 反対側は篠崎製菓から掘り出し、その他補助の穴も掘っていた。
- レールを引いてトロッコを通していた。
- 壕の補強を中空のコンクリート・ブロックで行っていた。
- 南山も空襲時被弾したが、駐屯していた兵士がすべて消した。
- 掘削には100人からの人が携わっていた。
- 海軍掘削部隊は食料などを分けてくれる訳ではなかったが、地元民に親切だった。
終戦後両親と共に宮村町に居住。少年期に地下壕に入った体験がある。これは地下壕の最奥部の壁面に 粘土層がむき出しになっており、その良質の粘土を取るために昭和30年代前半、懐中電灯や蝋燭を手に 壕に入ったとの事。
- 壕は矢沢ビル入口の他に、並んで光隆寺正面あたりにあり合わせて2本であった。間隔は50mほど。
- 壕の奥行きは不明だが少なくても60〜70m以上はあったと思う。
- 方向は一本松の方向であり、一本松下くらいまでは到達していたと思う。
(壕入口から一本松まで直線距離は約130m-DEEP AZABU注)
- 谷沢ビル入口はスロープを登った正面あたりにあり、壕入口は数段の階段が設けられ少し低い位置から始まっていた。
- 谷沢ビル壕入口付近は時期によっては水溜まっていることもあり、入れないこともあった。
- 壕に入ると通路は直進しており、かなり奥に入ったあたりで右へ伸びる通路が分かれて光隆寺正面入口と つながっていた。
- 壕の最奥部は通路よりかなり広くなっていて部屋のようだった。正面には削りかけの粘土層が露出していた。
- 壕内部壁面・天井・地面はコンクリートのようなもので塗り固められているように見え、土が露出しているのは 最奥部正面のみであった。
- 壕内部の地面は中央に側溝が掘られており、天井は補修をしたような形跡があった。
- 光隆寺正面入口はすでに塞がれており、そこからの侵入は無理だった。よって谷沢ビル入口から入り、 通路を右折すると光隆寺正面入口からの通路と合流しており、内部が確認できた。しかし、光隆寺正面入口から伸びる通路 は更に奥まで続いていたが、ガレキなどで奥には入れなかった。
証言者E氏が描いた昭和30年代前半の壕内部図
・証言者F氏(昭和?生まれ女性)
- 聞き取り準備中。
- 戦前からの居住者で壕掘削を目撃している。
・証言者G氏(昭和2?年生まれ)昭和30年代前半に家族で竹谷町に移転してきた。引越し当初母親が近隣住民から聞いた話として、
- 壁面を第一師団方面に掘っていた。
- 残土で今も周囲が他所よりも高くなっている。
- 軍隊が掘っていたのかは不明。
- 時期は不明
- 壁面の上に不自然な道路がある。
- 近隣の現韓国大使館あたりには昭和20年に海軍官邸があり米内光政が住んでいた。
(この証言は宮村町ではなく、竹谷町入口情報です。)
・証言者H氏(昭和17年生まれ)麻布十番雑色通り商店主
- 戦後壕入口がよく見えた。
- 入口は賢崇寺墓地地表より3〜5m位下にあった。
(墓地地表の標高は約25m、十番パティオきみちゃん像前の標高は約9mで入口は標高20m位の高い位置にあったと思われる。)- 斜面上の方に入り口はあった。
- 壕埋戻し工事には気がつかなかった。
(この証言は宮村町ではなく、篠崎製菓入口情報です。)
など多くの情報を提供していただいた。また同級生で唯一宮村町に現在もお住まいのK君からの情報により、私がこの調査の初期に探し当てた 1977年2月15日読売新聞朝刊の記事には続きがあり、何と驚いたことに、その翌日1977年2月16日読売新聞朝刊に 「その地下壕を掘った」という方が名乗りを上げられていた。内容は麻布中学の生徒が戦時中勤労動員で地下壕掘削に動員され、その中の一人が読売新聞に名乗り出られたのだ。 さらに新聞は同級生の一人にもインタビューを行って記事の確証性を高めている。記事自体は「オレたち終戦派−麻布学園234会著」 で書かれたものとほぼ同じだが、新聞記事は体験から32年しか経ていず、著作が1990年11月と体験から45年が経過しているので、記事に書かれた内容は 貴重な資料となっている。
また、この壕に関連すると思われる別の記事も昭和34年の新聞に掲載されていた。1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経の各夕刊に谷沢ビル入り口のあった場所のがけ崩れにより作業員が 土砂に埋まり、負傷したとの記事がある。記事によるとがけ崩れ防止工事中の事故であったとのことで、記事は各紙とも3面に小さな扱いだが壕入口の埋戻し工事かと思われるのでこちらも貴重な資料となっている。
これらの証言や新聞記事により、今までまったく謎であった宮村町側の壕入口の正確な位置、本数、内部構造、 奥行きなどかなり多くの事実を確認する事ができた。次回は更に港区史付図に書かれた空襲による消失区域・建物強制疎開図に書かれた謎を追う予定。
参考文献
・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
・オレたち終戦派−麻布学園234会著
・1977年2月15日読売新聞朝刊
・1977年2月16日読売新聞朝刊
・1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊
・戦乱と港区
・港区史
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172.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その5−建物疎開図の謎−
麻布山地下壕の書籍を探しているうちにたまたま新修港区史の付図を見た。付図の正式な名称は 「太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区地図」といい、港区全体の戦災地図でピンク色 に塗られた部分が「戦災による消失区域」で黄土色に塗られていたのが「建物強制疎開の区域」を表 していた。これは何か参考になればと軽い気持ちで見たのだが、麻布区域をコピーし、地図上に軍事上の重点項目、壕の入口と考えられる 場所をプロットしてみると、黄土色に塗られている「建物強制疎開の区域」にある特徴が現れて、驚いてしまった。 それは、建物強制疎開の区域は大まかに言うと古川に沿って中の橋方向から天現寺近辺までの南まわりの区域と、 麻布十番商店街→日ヶ窪→薮下→玄碩坂〜櫻田通りで一旦櫻田神社を避けるように左折して、大横町(富士見)坂 を下って(現在の)外苑西通りを青山墓地方面に伸びている北周りの区域によって建物疎開は行われたようだ。 (注:もしかしたらこれは計画図で全部は実行されなかったのかもしれないが)
そして、この円周(完全な円ではないが詳細は後述)の中心がほぼ「がま池近辺」で、周囲から中心方向に向かって4本の 建物強制疎開帯が入り込んでいる。これに軍事要点をプロットしてみて驚いた。なんと4本のうち3本が地下壕の入口と 確定または噂される場所に重なった。そして残る一本は五の橋近辺で新坂沿いに内部に入り込み、旧麻布プリンスホテル(更にその前は鷹司邸)壁面 (現フィンランド大使館)あたりで止まっている。そこで最後の一本も地壕入口では?と予想し、さっそくその壁面を 見に行ってきた。すると新坂を登りフィンランド大使館角の本村小学校方面壁面(この壁面はかなり古そうで、当時からの物かもしれない)に、 小さいがそこだけコンクリートで新しく塗られた入口状の場所を発見した。しかし、この入口は全くの未確認であり、目撃談も 書籍の記述も無い私個人の推測に過ぎない。よって、これをもって「新坂地下壕入口」と 断定するつもりは無いが、疎開区域図上の確率からすると全く捨て去る事もできない。
私がプロットした地図はこちらからご確認頂きたい(対比のためプロットしていない原図はこちら)。 内部に入り込んだ4本のうち、
@ は新聞記事となった篠崎製菓入口(ここには2本の入口があったという)
A は前回171.でお伝えした宮村町入口2本(土砂崩れ事故はこの1本)
B は竹谷町住民が語った「第一師団の方向に掘った壕」の入口。
そしてC は推測で未確認の壕入口
また、この4本は北側1箇所、東側2箇所、南側1箇所(推測)に設置されているが、西側が皆無である。そして、天現寺から 外苑西通り沿いに笄小学校あたりまで建物強制疎開帯は設けられていない。これも大きな謎で、この図が計画図なら、当初から 西側には壕の入口を設置する予定が無いと考えられ、また、建物強制疎開実施済みを表す図ならば、終戦によりこの部分が強制疎開帯設置に間に合わなかったとも考えられる。 もし、この図を計画図と仮定して疎開帯を設置する予定が無いと考えると、もう一つの見方が見えてくる。それは北周り(私は勝手に日ヶ窪Rootと名づけた。)をたどると、 青山墓地方面のその先には「麻布三連隊」につきあたる。昭和20年当時、通称麻布三連隊こと歩兵第三聯隊(豊五六二〇)は ご存知のように2.26事件の関与部隊であった事もあり中国北東部の最前線に展開してから昭和十九年に沖縄方面に移動し、 終戦を宮古島で迎えた。次に営舎は新設の近衛歩兵第五聯隊が 14年8月から16年1月まで使用し、昭和18年から終戦まで使用していたのは通称号、 東部八部隊と呼ばれた「近衛歩兵第七聯隊」である。この部隊は最後の皇居守護・帝都防衛部隊であり、本土決戦時には 東京市内の防衛を担っていた(この部隊は「東京大空襲・戦災誌(第2巻−東京大空襲)」において麻布十番罹災記を記した 戸田 勝久氏が麻布山善福寺に東部六部隊と共に駐屯していたとする部隊である。)。私はこの日ヶ窪ルートを地上における 部隊の移動用通路ではないかと推測し、その方面にに詳しい方に聞いてみたが建物強制疎開帯を通路として使用した事例は 聞いた事が無く、ただの偶然であるといわれた。しかし、私には依然として進撃・撤退をするための通路に見えてしまう のだが.....。
いづれにせよ、
・建物強制疎開帯進撃路説の謎は、闇に包まれたままである。 (この二説はDEEP AZABU個人が推測しているに過ぎないものです。確証も文献もありません。邪説とお考えください。)
・新坂地下壕入口説
173.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )その6−資料集−
3回にわたり連続してお伝えした麻布山巨大地下壕だが、今回は今までの情報を整理する意味も含め、これまでの 証言・書籍などの内容を、一部以前の内容と重複するが総てお知らせ。
著書による証言
★十番わがふるさと−稲垣 利吉著
- 日本海軍は麻布の丘を利用し、本土決戦場の一翼にせんと南山小学校を本陣として 賢崇寺のお寺の各所に横穴を掘り、防空壕に利用して居ましたが、更に、本格的に 地下道を作らんとして坂下側から宮村町に貫通させるためにレールを壕に敷設し、 兵隊を督励して掘進んでいました。(p27)
- 敗戦の色濃い日本軍部は、本土決戦を覚悟し「地下戦に転じた。麻布のごとき 山岳戦に適した場所は、まず目をつけられた。横須賀海軍に命じて、海軍陸戦一個大隊 (四五〇名)は、南山小学校を兵舎にして、壕掘りの仕事を十九年四月頃から始めた。 初期の計画は、賢崇寺の山を現篠崎製菓の真の崖から掘り始め、一方、宮村山水舎の右方 から掘り出し、中で二又にわかれ、善福寺の方へ抜いていく予定であったが、約六割ぐらい で、完成する前に終戦になってしまった。壕のはば二米ぐらいで、両壁はコンクリート ブロックで張りつめ、道路は下水の溝を作り、中央にトロッコのレールが敷かれてあった。 掘った土は外が焼けの原だから、道の片面に土をもり上げてあった。(p82)
- 戦時中、終戦に近い昭和十九年春頃から日本軍は敗色濃い本土決戦のため宮村から賢崇寺の 山をくり抜いて仙台坂へ通じる壕を掘り始めた。南山小学校を兵舎にして横須賀海軍の海兵 隊四百五十名が十九年二月頃より山水舎の裏山から掘り出した土砂は安全寺前の細い道路片側 に積み出したが、それは十番本通りまで続いた。壕は本格的に作るので、中の道路をブロック塀 で囲い、道路にトロッコの線を敷き、下には下水を通すようにするのだから大仕事である。 反対側の雉式通りは現篠崎製菓の裏山から振り出したが、ここは焼跡で土砂の山であった。 筆者は終戦の直後、この壕に入り見学したが、八分通りトロッコの鉄道も壁面のブロックも 出来ているのを見て、軍部も金の要る時にずい分無駄な事をしたものだ、「オボレる者はワラ をもつかむ」とはよく言ったものだ、とつくづく思ったことだった。(p116)
- 誤って賢崇寺の井戸を掘りぬいてしまい伝声管として使用した。(p28)
- 終戦の翌日、賢崇寺に部下からリンチされそうになった掘削部隊上官兵士が逃げ込み、これを追って 部下の兵士たちが来たが、住職が一喝して追い返した。(p83)
★東京大空襲・戦災誌(第2巻−東京大空襲)
- 麻布十番罹災記−戸田 勝久氏
〜麻布山善福寺も、東部軍管区兵站部海軍燃料廠として、また、近衛四連隊 東部八部隊、 六部隊の宿舎として徴発されされ、また海軍は、南山国民学校のある内田山丘陵地帯一帯 を本土決戦の要塞とすべく、現在の篠崎製菓近くの坂下町側と宮村町の二方面より、軌道を 敷き、一大地下要塞の構築をはじめました。〜(p376)
- 鉄筋の防空壕で−岡田 久男氏
〜この防空壕は、間ロが高さ、幅ともlb半くらい、奥行が一〇〇bあまりもあって、鉄筋で両方の 入り口は鉄の二重扉であった。中には電灯もついていた。工事費は三万円かけたとか。その後終戦 まで軍が使っていたようである。〜(p808)
★オレたち終戦派-麻布学園234会著
- 勉学の意欲そがれて−山口冨成氏
〜その後、海軍部隊の地下壕陣地構築に従事させられ、下士官から「この戦争は日本は危 ない」などと聞かされ、また、「こんな中学生を使うようではおしまいだ」と兵隊が言って おり、故山崎君はどこから聞いてきたか、「日本は敗けるよ」と話していたのを思い出し〜(P90)- 本土決戦下の中学生勤労動員−花井清氏
八月一日から南山国民学校坂下付近で海軍が掘削中の本土決戦の「随道」と称し、いわば「麻布の丘」 の土手っ腹に長い横穴を開ける大防空壕構築(軍機)に八月十五日まで動員された。私の奉仕は三人一組 の重いリヤカー運搬で(背の高い計9人従事)、隧道入り口付近で製造するコンクリートブロック (隧道アーチの基礎台で一個四十キロ)3個を仙台坂付近にあった主要隧道への連絡坑道掘削入り口現場まで、 麻布十番のガレキだけを残す焼け野原の曲がりくねった険路三キロほどを一日四、五回往復する重労働だったが、 現場監督は丸腰の設営隊の棚橋一等兵曹という部下思いの下士官だった。なお同現場と道を隔てた向き合い の家が当時五月二十五日の海軍省焼失で移転してきた大臣官邸とささやかれ、表札のない門前に着剣の戦隊 水兵が守備しており、官邸の主は御前会議である最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、 軍令部総長等構成)の和平派たる米内光政海相(元首相)だったわけだが、海相の末子でわれわれの三年 先輩の米内尚志さん(当時慶大生)も起居されていたようだ(現在同地は大韓民国大使館敷地の一部か?)。 八月になると、六日広島に原爆投下、八日ソ連対日宣戦布告、九日長崎に原爆投下と戦局は末期症状を呈し、 ついに十五日(水)正午、設営隊駐屯本部の南山国民学校講堂に集合し、海軍の「気をつけ」ラッパの響き 「タッタカ タッタター」(一回吹奏)で不動の姿勢をとり、将兵と共に満場粛然息もつまるような静けさ であの玉音放送を聴き、戦争も動員も終わった。(P92)- 地下壕掘り−大西将夫氏
疎開せずに東京に残っているわれら三年生が働く先となったのは、麻布十番の外れの台地に、海軍の地下壕 を作る作業であった。食糧不足で力仕事もできぬ私たちの担当したのは、コンクリートのなかに埋め込む 鉄筋作り。赤さびて曲がった鉄棒をたたいて真っすぐに伸ばす作業であった。このころには日本は制空権も 制海権もなく、米軍の艦載機の飛来もよくあり、作業の方はしばしば中断していたようだった。〜(P114〜115)- 不発の焼夷弾−森田宏氏
次に回されたのは、麻布の丘の地下壕掘りの手伝いだった。 今考えると、もういく工場もなかったのだろう。 この仕事は本土決戦に備えて海軍がつくっていた地下壕建設の手伝いで、われわれが割り当てられた所は、 麻布十番通りを六本木へ向かって進んだ左側、南山小学校の付近であったように思う。地下壕はトンネルを 掘った後、コンクリートブロックで枠組みをしていたようで、当時あまり背丈の大きくなかった私は、生コン 製造の班にまわされた。海軍の水兵さんの指揮で生コンの原料を必要量混合器へ投入する役目であったが、 あまり若くない水兵さんは優しい人で、力仕事はそれほどやらされず、つらい仕事ではなかった。 当時われわれは遊ぶ時間を持たなかったが、唯一の遊びは昼休みに付近一帯の焼け跡から、不発のエレクト ロン焼夷弾−陸上リレーのバトンより少し大きめだったと思う−を拾い集め、焼け残った塀へ投げつけては、 それが発火して大きく火花が飛び散るのを見て、花火を見るような気分で面白がったものだ。(P116〜117)- 老兵の涙−中川安郎氏
〜次の動員が麻布十番近くの海軍の防空壕掘りであった。予備役召集の老兵が、東京の夜 空が炎に包まれ焼け尽くされるありさまを見て、家族の身を案じ、しきりにわれわれに情報 を求めてきた。終戦の詔勅もそこで聞いたが、老兵の目に大粒の涙が光っていたのが今でも 私の脳裏から離れない。〜(P123)- ひとかけらの記憶−廣島邦彦氏
〜そして、最後が麻布十番での穴掘りである。当時、共に働いた兵隊たちが「何か食い物があったら 持ってきてくれ」というのには驚いた。見れば、その兵隊たちは、年齢はかなりいっているようにみえた。 「この際には食糧が不足しているのか」「これからどうなるのかな」とは思うものの、深刻に状況を考え、 「もう戦争は放けるのか」とはついぞ思わかった。(P127)- 帝国海軍敗れたり!−山田英夫氏
僕たち麻布の三年生は、勤労動員にひたすら汗を流していた。それまでの激しい空襲や強制疎開で、 今やガレキと化した麻布の台地に、本土決戦に備えて地下壕陣地を構築しようというのだ。作業の主体 は海軍部隊。海軍といってもて地下壕陣地を構築しようというのだ。作業の主体は海軍部隊。海軍といって も当時すでに乗る船はなく、忠勇無比の将兵といっても、多くは多くは四十歳前後とおぼしきオジサン たちである。でも僕たち、救国の情やみがたく海軍さんにまじって、黙々として作業に従事した。 作業は、練りあげた生コンをシャベルで蒜ずつ運び、並べられた枠型に流しこむという単純なものである。 とある日。 「学生サン、こげんこつただやっちょっりおってもつまらんたい。どっちがたくさんできるか、ひとつ競争 でもややりまっしょ」てな調子で、海軍サンから競争がもちかけられた。 彼我同人数で、所定時間内により多くのブロックを作ったほうが勝ち!という競技である。 ヨシ!敗けてなるものか、と早速そのゲームは開始された。 戦いなかばごろ、敵は?と見れば、あっずるい!チンタラ、チンタラやっているだけではないか。最初から まじめに競争する気なんてない。ノセラレタ!!と気がついたものの、そこはそれ、愛国少年の僕たち。 手抜きなんかせず、最期まで一生懸命頑張った。 もちろん結果は、学生軍の大勝。そこで海軍側のリーダーの言うことがふるっている。 「ああ、帝国海軍敗れたり!」と。 太平洋戦争のホントの現場では、帝国海軍はとうの昔に壊滅していたのだが、この陸上の海軍サンは、 純なわが愛国少年たちに、うまうまとノルマ達成のお手伝いをさせるだけの狡知はもっていたわけである。 〜(P142〜144)- 学徒勤労動員の1日−岩田整氏
それは日本の敗戦が避け難いと一部の人々がささやき始めたころのことであった。私たちの周囲には、 乙種や丙種合格の体格のために、よもや招集令状が来るとは思ってもみなかったのに、招集でかきあつめられた 、歳のころも四十歳を越えているのではないかと思える三等水兵、二等水兵たちが固まって、たき火の中の 飯ごうでヤマゴボウの塩ゆでができあがるのを眺めていた。 私たちは、それまでに、安立電気への工場動員(空襲で焼失)、防火帯建設のための強制疎開の建物の 取り壊し、焼け跡の整地とサツマ芋の植え付けなどの動員を経験したあと、ここ麻布十番に向かって左側 の仙台坂側の台地に、横穴式の大規模な防空壕建設工事に動員されてきたところであり、この塩ゆでの ヤマゴボウは、三水や二水などの、招集で駆り出された海軍の兵たちが、支給された食事では身がもたぬと、 志願兵あがりの兵曹たち(疲らは二十歳前後で、軍隊の階級制度で一応十分の食事給与があった模様)の 目を盗んで「おやつ作り」に励んでいた。彼らの唯一の望みは、腹いっぱいに食事をとることであり、私も 当時、非常食として常時、雑のうに携行していた、いり米・いり豆を彼らが豊富に給付されていた日用雑貨と 交換して自宅に持ち帰り、母に大変喜ばれた記憶がある。 (純綿のタオル・化粧用せっけん等で彼らはこのような物資は潤沢に消費できたが、食糧は相つぐ空襲で 食糧の備蓄倉庫が焼失して窮屈となり、結果として民間より悪い状況であった‥…われわれ民間の 米穀配給制度の欠配・遅配が深刻な状況となったのは、この直後の八月十五日を過ぎてからである)。 この大規模な防空壕は、当時霞ヶ関にあった海軍省が米軍の日本本土上陸に備えて、長野県松代 (当時その地に大本営を移転する計画が準備中であった)へ退却するまでの、抗戦指導用の後方基地 として掘削していた。 麻布十番に向かって左は海軍省(仙台坂の台地)右は陸軍省(鳥居坂の台地)のそれぞれの防空壕で あったが、海軍省がダイナマイトや土木機械を活用して掘削しそのあとをセメントで固めていたのに対して 、陸軍は、ツルハシやシャベルと坑木で壕を掘り進めていたのが対照的であった。これは私たちの焼け 跡整理の動員現場がちょうどこの両防空壕建設の前面であったために、この海軍へ動員される直前に、 毎日状況を観察していた事から承知していた。そんな事があってから二、三日後、われわれは運命の 八月十五日終戦の日を迎えた。(P146〜147)- 作りそこなった新記録−川合澄男氏
暑い日だった。真っ青な空にわずかに雲が浮いていた。 「本日は正午より恐れ多くも天皇陛下おんみずからのご放送がある。それまでに必ず戻るように」 と命令を受けてトラックに乗りこんだ。 私たちは、麻布の丘に海軍部隊が構築中の地下陣地の作業に動員されていた。動員最初の日、将校 に連れられて建設中の地下壕の中を見学した。「これは軍の最高機密である。ここで見聞きした内容 については、家族にも絶対話してはならん」と言われ、「敵が上陸してきたら、貴様らもわれわれと ともにここで最後まで戦うことになる。生死をともにする仲となるのであるから、親しい友達同士で 班を作れ」とおどされた。私たちは、掘削中の地下壕から土砂を運びだすグル−プ、内部を固める コンクリートブロックを作るグループ、砂利・砂・セメントをトラックで運ぶグル−プなどに 分かれて働いた。 いた。お世帝にもたくましい若者とは言えない私たちにとって、スコップで砂利や砂をあげ おろしする作業は楽ではなかった。それでもスコップの砂を散らさずに投げ上げるコツも覚え、 一日三往復、空襲の最中も休むことなく、ピストン輸送にたずさわった。身をかくす場所もない 皇居前で米軍の艦載機に狙われ、命のちぢむ思いをしたことむあった。 「重大放送って、何だろう?」「みんな、ガンばれってことだろう」「ひょっとして、日本が 負けたのかなぁ〜」トラックの荷台のうえでコソコソ話し合っていた私たちに、水兵が怒鳴った。 「ばかッ、日本が敗けるかぁッ」。私たちは沈黙した。 昼までに戻るために私たちは必死で働いた。二度めの砂を乗せて戻ったのは正午過ぎ。 「これなら今日は四往復して新記録が作れるぞ」と話し合いながら集合場所の南山国民学校の講堂へ駆け込んだ。 放送はすでに始まっていた。列の最後尾についた私たちに、放送の内容はよく聞き取れなかったが、 ともかく放けたらしいとは分かった。講堂に座り込んで号泣していた将校の姿が印象的だった。 午後の作業は中止。私たちの新記録は、実現しなかった。(P150〜151)- 私の終戦−早乙女和雄氏
当時中学三年生であった私たちは、麻布十番の焼け跡の斜面にトンネルを掘っていた。 本土決戦に備えて、陸に上がった海軍の陣地をつくるため、動員されていたのである。 動員は前年の二年生の時から始まり、学校に近い安立電気の工場に出された。この工場は 無線通信機をつくっていたが、中学三年生の役に立つ仕事はなく、会社側も大いに迷惑 だったようで、長く続かなかった。入社式で、細川校長が、低学年中学生の工場動員に 反対の意味の話をされたことを覚えている。 終戦直前の状況は悲惨であった。私の家は五月の空襲で焼かれ、腹も頭も空っぽだった。 ある日、将校さんに、一人ずつ順に来るようにいわれ、トンネルの奥の部屋に入った。 割リバシに水あめをまいて差し出し、「ここで食べなさい。君たちも間もなく学校に帰れる だろう」といわれた。水あめがとても甘かった。終戦の前日だったと思う。〜(P152〜153)- 八月十五日前後−宮地進吾氏
〜終戦の十日ほど前の日の、花井君との会話を今でも思い出す。当時、彼とは有栖川公園で、 一トン爆弾でも耐えることの出来る防空壕のセメント作りに専念していた。その作業を実質的に 指揮をとっていたのは、海軍の軍属で丹那トンネルを掘ったことがあるという温厚な人だった。 私とはよく話をし、「ここは地盤があまりよくないから、学生は中に入らない方がいいよ」 と言われていた。その人が落盤で足をケガした数日後が、八月十五日だった。 その日は晴れた日で、たしか南山小学校に十二時に集まり、玉音放送を聞いた。その場にいた 海軍将校のおえつ、二、三人は軍刀を抜いて割腹しようとしたので、下士官に取り押さえられて いる光景が異様な雰囲気をかもしだしていた。しかしその反面、冷ややかにその光景を見詰めて いる兵隊や軍属がいたのも私は見逃さなかった。(平常、大きな顔をして無理な仕事を押しつ けていたのだろう) 悲しかった。とめどなく涙があふれた。しかし今日からは、もうゲートルを巻いたまま寝なく てすむんだなあ……。焼夷弾の恐怖に襲われることはない。と思うと♪ほっとした気持ちだった。 〜(P154〜155)- したくもなかった経験をした焼け跡派−喜多智慧夫氏
〜やがて、いわゆる学生生活を楽しむどころではなく、敵国の言葉である英語などトンでもない という時代になり、勉強どころではなくなった。空襲警報が鳴るとよく有栖川公園の防空壕へ 避難した。しかし戦線が拡大し、本土に戦雲が垂れこめてアメリカ軍の空襲も激しさを増して くるころ、勤労動員に駆り出された。最初の動員先の安立電気が戦災を受けるとつぎに海軍の 防空壕作りを手伝うことになった。毎日毎日ゲートルを巻き軍靴を履いて、トラックに乗って 砂利運びをした。そんな状況の中で八月十五日を迎え、あの玉音放送を聞いた。泣いていいのか、 笑っていいのかわからず、ただぼう然としていたのを覚えている。夏の暑い太陽が降り注ぐ中、 周囲には広い焼け跡が広がっていた。〜(P156〜157)- 自由は死なず-新川清氏
私は戦争の終わる前日まで、仙台坂の横手に、海軍の兵隊と一緒に、防空壕を掘っていた。 私の役目は、麻布十番からコンクリートブロックをリヤカーに積んで、仙台坂の現場まで 運ぶのが仕事だった。一ノ橋から二ノ橋にかけての付近一帯は一面の焼け野原で真夏の 太陽が容赦なく照りつけ、十五歳の少年には大変つらい労働だった。夜はB29の空襲で寝られず、 食べ物もなく、こんな状態がいつまで続くのか不安だった。 運命の八月十五日当日も、かなり暑い日だった。正午に、近所の学校の校庭に海軍の兵隊と 一緒に集められ、天皇の録音放送をきいた。最初は、天皇が国民に対しもっと頑張って戦えと いう話かと思ったら、結局戦争が終わるということが分かり、悔しいと思ったのも一瞬で夜中 に起こされずにすむ。明日からの重労働が無くなる―。これから先の苦労など何も考えず、 なんだか訳の分からない虚脱感と開放感があった。〜(P162〜163)- 私の戦争体験 ”権力は欺く”−白井厚氏
〜中学に入ると戦局は厳しくなり、カーキ色の制服にゲート〜を巻いて登校、教練・戦闘訓練に 明け暮れ、学徒勤労動員で一九四五年一月末には天現寺の安立電気KKに入所。工作係仕上調整班 に所属して海軍の無線機用バリコン(バリアブル・コンデンサー)をつくった。アルミ板を平に 重ねて組み立てるわけだが、軸が固くてうまく回転せず、面倒だとばかり軸をドリルに接続して モーターで回してみたら、軸だけでなくバリコン本体が回転し、これが遠心力であっというまに ひん曲がって私の左手首を切ってしまった。物理の勉強をおろそかにした無知の結果なのだが、 二針縫ったこの傷が、私の体に残る戦争の跡である。 やがて空襲が激しくなり、五月末に工場は焼けてしまった。わが家は北鎌倉に疎開。われわれ 中学生は、本土決戦に備えて麻布の丘の中腹に横穴を掘る海軍の手伝いをしたが、掘り終わらぬ うちに敗戦の日が来てしまった。〜(P164〜165)- 終戦前後−久保田健三氏
三年生の八月から麻布の高台に横穴式の防空壕の建設作業に動員された。海軍の仕事であったが、 現地責任者の下士官の方はわれわれにやさしく接してくれ、時には作業貞の昼食のおかずのおすそ 分けにあずかった。一方、時折、自転車でフラッとやってくる若い士官にはどうも好感が持て なかった。徴用された年配者の人々の口からは故郷を思う言葉が漏れることがあった。 ここで終戦を迎えるわけだが、あの玉音放送はなぜか家で聞いたように思う。やはり悔しさは あったが、それ以外の別段の気持ちは今となっては思い出せない。〜(P168〜169)- 「その日」は、空が青かった−立松久昌氏
三月十日の東京大空襲以降、次第に空襲も激化し、安立の工場も焼けてしまった。資材課動員の仲間は、 その後麻布十番で本土決戦に備えて、麻布が丘の横っ腹を掘る巨大な防空壕づくりに駆り出され、そこで 終戦を迎えたのである。 安立資材課での検品・品出しの作業とは打って変わり、土を掘る→一輪トロッコで運び出す→トラック に積む→荷台に乗って捨てに行く、という防空壕掘りは、いま考えると、当時、十四、五歳の空きっ腹 をかかえた中学生にとっては、お国のためとはいいながら、とてつもない重労働であった。 「その日」は、朝から指揮をとる配属の将校がなんとなく落ち着かず、何か重大な発表があるという ことで、私たちは近くの城南中学の校庭に集合するように命令された。集められた学徒一同は、そこで、 いわゆる「玉音放送」を聞いたのである。〜(P170〜171)- 激動の時代 米軍を恐れて山中へ逃避行−星 亘氏(P184〜185)
〜昭和二十年八月からわれわれは麻布十番の海軍司令部用の地下壕掘りに動員された。一面の焼け野原 の一角にガソリンエンジンで回転するコンクリートミキサーがモクモウと白煙を吹きあげる現場は、 労働としては暑さの中でもあり相当なものだったとは考えられるが、私の記憶に残っているものは、 隊長坂田中尉の優しさと、キュウリの酢の物と、いった大豆の味のみである。そして八月十五日の終戦 の翌日、集まったわれわれに分配されたさけ缶やゆで小豆の缶づめ、白い毛布等が鮮明に思い出される のである。優しかった隊長、坂田中尉も、昭和二十六年ごろ若くして世を去られたと聞きおよんでいる。★?
★大学とアジア太平洋戦争−白井厚著
- 麻布の横穴から教室へ−白井厚氏
〜そして、いよいよ本土決戦ということで、我々も焼け跡整理や疎開家屋の引き倒し作業などに 動員されたが、やがて三年生100人以上は、八月一日から帝国海軍の下働きになったのである。 そこは南山国民学校の坂下に近く、仙台坂の横手あたり (麻布区宮村町)だっただろうか。台地の斜面を利用して、海 軍の設営隊が横穴式の大防空壕を掘っていた。米軍が上陸し て地上戦になったら、海軍省は松代(長野県)に退却するま での間、この穴にこもって戦うつもりだったらしい。 我々中学生はこの穴掘り作業の手伝いをしたのであって、 掘り出した土を一輪車で運び、それをトラックに積み、荷台 に乗って飯田町の貨物駅あたりに捨てに行くグループ、壕の 内部を固めるコンクリート・ブロックをつくるグループ、そ れをリアカIで運搬するグループなどがあったようである。 我々を持挿した海軍の軍人は、召集で釆たような申年の人 が多く、我々も夜は空襲で何度も起こされた若年・未熟の労 働力で、帝都を守る精鋭部隊とは言えなかった。作業中に空襲 があったし、トラックで土を捨てに行ったグループは、米 軍の艦載機に狙われて危険な目にも遭ったという。 米軍が上陸して東京総攻撃となったら、この人工の穴が沖 縄のガマのように、我々の墓場になったことであろう。しか し幸いなことに、私がこの巨大な穴の入り口あたりでウロウ ロしているうちに、八月十五日になったのである。
声の主はどんな人
その日、午前中は各々の作業を行い、正午に設営隊本部が あった南山小学校に、海軍の軍人たちと一緒に整列して「玉 音放送」・を聴いたが、カン高い人間離れのしたような声は、 とても聴きとりにくく、私は「これは米軍の謀略放送では… …」と一瞬疑ったことをよく覚えている。 「神州不滅」を教えられた軍国の少年は、直ちに祖国の敗 戦を納得することはできなかった。しかし、あとで聞くと友 人の中には父親から敗戦のことを聞いていたという者がい て、この情報量の巨大な落差に私は衝撃を覚えた。 下級将校や下士官、水兵たちは、やはり何も知らなかった のか、その場に座り込んで泣く者もいた。私は何が何だかわ からずに放心状態でいた。天皇の声を初めて聴いて、いった い声の主はどんな人なのだろうかと疑った。これから日本は どうなるのか……。〜(p71〜73)
第T部 戦時中の大学★平和への願いを込めて2007
1大学一風にそよぐ葦の歴史
○貨物駅にて
それであとは、海軍が麻布の丘の横腹に本土決戦に備えて地下壕を掘る。それを手伝え ということで、われわれ中学生ですから実際に掘ったわけではありませんが、水兵たちが丘に横穴を掘るのを手伝 う雑用をやっておりました。 その頃のことでした。今日みたいに暑い時でしたけれども、ここに近い飯田橋駅の少し向こうに、飯田町という 貨物駅がありました。そこの引込線のところへ行ったら列車が入ってきたんですが、何やら異常な感じがいたしま した。そうしたら鉄道員の人が早速飛び乗って、オーイ見てみろというので行きましたところ、客車の床は血だら け。そして床に散乱していたのは妙った大豆でした。あのころは食糧が足りませんので、みんな大豆を妙って食べ る。これが貴重な蛋白源でした。そういうものが散乱しておりました。中央線の列車が米軍機の機銃掃射を受けた んですね。おそらく阿鼻叫喚の地獄で人々は列車の中を逃げまわっていただろうと思います。私が見た時はもう空 で、死体や負傷者も降ろした後だったのでしょう。鉄道の人が棒でもってひょっと飛ばして見せたものは人間の指 でありまして、私は愕然といたしました。床の血糊と大豆、ちぎれた人間の指という異様なものを見て、戦争の悲 惨さを感じた次第であります。〜(p2〜3)
中学時代の戦争体験−神山三郎氏
○麻布中学での戦争体験〜中学三年の夏休み頃からだったと思うけど、麻布十番の丘に地下陣地を構築する仕事に動員されました 極秘のもので海軍の兵隊が壕を掘る仕事をやり、私たちの仕事は飯田町の貨物駅から、スコップで砂利を トラックに積んで現場まで運ぶ作業でした。一日三往復しました。暑い炎天の中で、手にまめが出来てね。 砂利はスコップにずっしりですから、フラフラになっちゃうんです。積み上げた砂利の上に疲れて、寝そ べっている時、米軍の艦載機に狙われて、命のちぢむ思いもしました。〜
○終戦の日八月十五日の前の日あたりから「明日は南山国民学校の校庭に集まれ」といわれ集められました。その日は 兵隊が前方に、我々は後ろの方でした。放送を聴いたけれども、声が割れるし後方からは聞きとれなかった ですね。前方の方から、嗚咽の声が聞こえてきました。後で聞いた話では、指揮官だった人が自決をしよう としてとめられたという話を聞いています。〜(p156〜157)新聞記事による証言
★1977年2月15日読売新聞朝刊
○タイトル「ぎょっ麻布の怪 旧軍謎のトンネル」
159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )を参照の事。
★1977年2月16日読売新聞朝刊
○タイトル「旧軍地下壕、我々が掘った 麻布中のOB 感慨の名乗り」★1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊
前日の記事に対して、麻布中学OBが読売新聞新宿支局に名乗りを上げ、麻布地下壕を掘ったのは 旧海軍工作隊と明かした。OB氏によると、
- 南山小を宿舎とした海軍工作隊の手伝いで、三年生全員(300人)が勤労動員にかり出された。
- 詳しくは知らないが、海軍の中堅幹部が司令部として作ったように思う。
- セメントやジャリを運んだ。
- 終戦の日まで作業した。
と明かし、さらにOB氏の同級生もインタビューで、
- 麻布に海軍大臣の公邸があって、邸を中心にあちこちで壕を掘ったと聞いた。
- 海軍将校から、壕の存在は最大軍機で家族にも話してはならないと言われた。
- 敵軍上陸時の首都防衛陣地か
などと話している。 また同日午後、麻布土木事務所(関口明所長)が午後1時半から4時まで壕内をくまなく測量し、 マンション建設後6年が経過しているにもかかわらず、岩盤も堅固で、シートパイルを 打ち込まれながらも壕内の崩落がほとんどないため、壕上に建設された マンションの安全性が確認された。...とある。
矢沢ビル裏の鉄筋コンクリートアパート建設現場で、ガケ崩れ防止のコンクリート壁の 基礎工事中に土砂崩れにより作業員2名の半身が埋没し、麻布消防署救援隊が30分後に救助した。 原因は6号台風直後で地盤の弛みから。地元住民の証言
★証言者A氏(終戦当時15歳)
当時十番通りに住まいがあったが昭和20年5月の空襲で罹災。賢崇寺の私設防空壕で一夜を明かし、 南山小学校に 避難。その後、西町仮住まいを経て宮村町に居住。宮村公園斜面上に2本の防空壕入口 があった。しかし それは斜面上のお屋敷のもので個人用であった。また山水舎付近に大掛かりな地下壕 の入口があり、トロッコ の線路が通り付近まで出ていた。そして通りの反対側には土砂が積まれていた。 詳細はわからないが、軍の機密 と聞いていたので、あまり近寄らなかった。★証言者B氏(帰還時26歳)
品川区五反田生まれ。戦争中は近衛師団工兵として中国北東部〜フィリピンと転戦。昭和21年帰還。 以降宮村町居住。帰還直後宮村公園上には2本の壕入り口が残っていた。中に入った事はないが、 善福寺 までつながっていると噂があった。山水舎近辺の入口は知らない。★証言者C氏(昭和2年生まれ)
戦前より宮村町在住。他界された弟さんが佐々氏同級生。戦争中は中国に出征。帰還後も宮村町在住だが 壕の話は聞いた事がない。★証言者D氏(終戦当時11歳)
祖父の代、明治期より宮村町に在住。昭和19年南山小学校の集団疎開で栃木県佐野市に疎開。 帰京は20年10月。 浜松町で電車を下りると、ホームから南山小学校の煙突が確認できた。 壕へは昭和20年秋頃に入った。 現在の谷沢ビル奥壁面最左に1本と、さらにその右手に1本の 入口があった。左手壕入口は、奥行き70〜80mほどか? 昭和20年春にご自身の生家・工場も 空襲により焼失。 ・壕の通路は幾重にも折れ曲がっていた。そして、 入ってすぐ左手に 20畳位の広い部分があり、部屋のようであった。 自身は外光が届く範疇(多分30〜50m)まで しか入った事はないが、更に奥があった。★証言者E氏(昭和22年生まれ)
●ご自身の体験として、
- 壕入口近辺は強制疎開で空いていた。
- 昭和20年秋に壕内入った。罹災したのでその中に住もうという人もいた。
- 一本松近辺までは堀進んでいた。
- 壕入口が水がはけるように少し勾配がついていた。
- 入口は2本あって中でつながっていた。
- 戦後、危険なので穴の入口をを2度くらい塞いだ。
- 陸軍が掘削した鳥居坂壕については聞いた事がない。もしあれば最近まで存命していた 雇い人などから 聞いた事があるはずだ。
- 中の部屋は少なくても2つ以上はあった。
●聞いた話として、
- 工事調査は19年、自分たちが疎開後から始まった。20年春から本格的な掘削が始まった。
- 地方から徴用された方が南山を宿舎としていた。
- 陸軍ではなく海軍が掘っていた。
- ここだけでなくいくつかを掘っていた。
- 従業員も掘削に加わった。手彫りだった。粘土質なので水の心配がなかったので あまり強度の補強は 必要なく掘り進めた。
- 反対側は篠崎製菓から掘り出し、その他補助の穴も掘っていた。
- レールを引いてトロッコを通していた。
- 壕の補強を中空のコンクリート・ブロックで行っていた。
- 南山も空襲時被弾したが、駐屯していた兵士がすべて消した。
- 掘削には100人からの人が携わっていた。
- 海軍掘削部隊は食料などを分けてくれる訳ではなかったが、地元民に親切だった。
終戦後両親と共に宮村町に居住。少年期に地下壕に入った体験がある。これは地下壕の最奥部の壁面に 粘土層がむき出しになっており、その良質の粘土を取るために昭和30年代前半、懐中電灯や蝋燭 を手に 壕に入ったとの事。★証言者F氏(昭和?生まれ女性)
- 壕は矢沢ビル入口の他に、並んで光隆寺正面あたりにあり合わせて2本であった。間隔は50mほど。
- 壕の奥行きは不明だが少なくても60〜70m以上はあったと思う。
- 方向は一本松の方向であり、一本松下くらいまでは到達していたと思う。 (壕入口から一本松まで直線距離は約130m-DEEP AZABU注)
- 谷沢ビル入口はスロープを登った正面あたりにあり、壕入口は数段の階段が設けられ少し低い位置から始まっていた。
- 谷沢ビル壕入口付近は時期によっては水溜まっていることもあり、入れないこともあった。
- 壕に入ると通路は直進しており、かなり奥に入ったあたりで右へ伸びる通路が分かれて光隆寺正面入口と つながっていた。
- 壕の最奥部は通路よりかなり広くなっていて部屋のようだった。正面には削りかけの粘土層が露出していた。
- 壕内部壁面・天井・地面はコンクリートのようなもので塗り固められているように見え、土が露出しているのは 最奥部正面のみであった。
- 壕内部の地面は中央に側溝が掘られており、天井は補修をしたような形跡があった。
- 光隆寺正面入口はすでに塞がれており、そこからの侵入は無理だった。よって谷沢ビル入口から入り 、 通路を右折すると光隆寺正面入口からの通路と合流しており、内部が確認できた。しかし、 光隆寺正面入口から伸びる通路 は更に奥まで続いていたが、ガレキなどで奥には入れなかった。
聞き取り準備中。 戦前からの居住者で壕掘削を目撃している。★証言者G氏(昭和2?年生まれ)
昭和30年代前半に家族で竹谷町に移転してきた。引越し当初母親が近隣住民から聞いた話として、★証言者H氏(昭和17年生まれ)
- 壁面を第一師団方面に掘っていた。
- 残土で今も周囲が他所よりも高くなっている。
- 軍隊が掘っていたのかは不明。
- 時期は不明
- 壁面の上に不自然な道路がある。
- 近隣の現韓国大使館あたりには昭和20年に海軍官邸があり米内光政が住んでいた。
(この証言は宮村町ではなく、竹谷町入口情報です。)麻布十番雑色通り商店主
- 戦後壕入口がよく見えた。
- 入口は賢崇寺墓地地表より3〜5m位下にあった。
(墓地地表の標高は約25m、十番パティオきみちゃん像前の標高は約9mで入口は標高20m位の高い位置にあったと思われる。)- 斜面上の方に入り口はあった。
- 壕埋戻し工事には気がつかなかった。
(この証言は宮村町ではなく、篠崎製菓入口情報です。)
★荒潤三氏(大正14年生まれ83歳)麻布本村町著者、当時本村町61番地在住
- 当時個人用防空壕が多くあったので、地下壕の存在は知らなかった。
- 本村小学校西側家屋の強制疎開を手伝った。
- 麻布中学に兵隊が駐屯していたのは通学の途中によく見たが、老兵で装備も不十分。ゲートルも巻いていなかった。
- 本村小に兵隊が駐屯していたのは知らなかった。
- 仙台山下壁面は当時からコンクリートで、壕入口があっても不自然ではない。
★戦時中、軍隊の駐屯した麻布近辺の学校※飯倉・東町・神応・三光など不詳・戦災による喪失と書かれている小学校は除外
学校名 陸・海軍 部隊名 目的 時期 出典 南山国民学校 ? 和気部隊 ? 昭和20年5/4〜? 南山郷土史料室 〃 海軍 ? 壕掘削作業 昭和20年5/26〜9/1 南山郷土史料室 笄国民学校 陸軍 東部八部隊 ? 昭和19年9/29〜11/? 港区史・下 〃 陸軍 東部六部隊 校舎偽装工事 昭和20年6/7〜? 五十年史 本村国民学校 ? ? 建物強制疎開 昭和20年2月頃〜1ヶ月程 港区史・下 麻布国民学校 陸軍 工兵隊・通信隊・衣料班 ? 昭和19年8/?〜21年2月頃 港区史・下 白金国民学校 海軍 ? ? 昭和20年4/10〜8/30 港区史・下 高輪台国民学校 ? 防衛召集部隊 ? 昭和20年2月〜8/15 港区史・下 東洋英和 陸軍 東京師管区 司令部 昭和20年? ? 〃 〃 東京連隊区 司令部 昭和20年? ? 〃 〃 東京防衛軍 司令部 昭和20年? ? 麻布中学 陸軍 東部七、八部隊 ? 昭和20年?月 オレたち終戦派
レファレンス協力
・証言者の皆様
・白井厚氏(慶応大学名誉教授)
・荒潤三氏(麻布本村町著者)
・東京都立中央図書館
・港区立麻布図書館
・港区立みなと図書館
・東京都立公文書館
・防衛省防衛研究所史料閲覧室
参考文献
・十番わがふるさと−稲垣利吉著
・オレたち終戦派−麻布学園234会著
・大学とアジア太平洋戦争−白井厚著
・旧制高校生の東京敗戦日記−井上太郎著
・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験−港区戦争・戦災体験集編集委員会
・平和への願いをこめて 今語りつぐ戦争の体験2007−港区戦争・戦災体験集編集委員会
・本土決戦準備1(関東の防衛)−防衛庁防衛研修戦史室著
・六男二組の太平洋戦争−佐々淳行著
・戦時少年−佐々淳行著
・東京大空襲・戦災誌−東京大空襲・戦災誌編集委員会
・港区史−港区役所/編集
・新修港区史−港区役所/編集
・太平洋戦争中の空襲による消失及び建物疎開区域図(新修港区史付図)
・戦乱と港区−港区資料室
・南山小学校郷土資料室文献
・1977年2月15日読売新聞朝刊
・1977年2月16日読売新聞朝刊
・1959年8月11日朝日・読売・毎日・日経、各夕刊
(周辺情報として参考にした書籍)
・フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕−白井厚監修・日吉台地下壕保存の会著
・証言太平洋戦争下の慶応義塾 −白井 厚・編
・Wikipedia「東京大空襲」画像(空襲をうける東京市街)
・麻布区史−麻布区編
・麻布本村町−荒 潤三著
・麻布新堀竹谷町−山口正介著
・麻布の少年−暗闇坂瞬著
・古川物語−森記念財団編
・日和下駄−永井荷風
・麻布雑記−永井荷風
・断腸亭日乗−永井荷風
・日本軍隊用語集−立風書房
・麻布区兵事議会沿革史−麻布区兵事議会編
・在郷軍人(将校)服役便覧−麻布連隊区将校団編
・本土決戦日本内地防衛軍−茶園義男著
・日本本土侵攻作戦の全貌−トーマス・アレン著
・相模湾上陸作戦−大西比呂志・他著
・東京史稿−東京市・東京都
・近代沿革図集 (麻布・六本木)− 港区立三田図書館
・麻布−その南西部−港区教育委員会
・麻布−その北東部−港区教育委員会
・榎の木の下に−若宮ケイ
・昭和は遠く−松浦喜一
・まち探索ガイドブック−港区産業・地域振興支援部
・描かれた港区−港区三田図書館
・写された港区−港区みなと図書館
・南山小学校開校120周年記念−南山小学校
・開園60周年記念誌なんざん−南山幼稚園
・笄小学校五十年史
・笄小学校六十五周年記念読本
・ほんむら 創立八十周年記念誌
・東町 開校80周年記念誌
・麻布小学校創立百年沿革史
・白金小学校開校100周年記念誌
・高輪台 開校50周年記念誌
・東洋英和女学院百年史−東洋英和女学院百年史編纂実行委員会
・東洋英和女学院120年史−東洋英和女学院120年史編纂実行委員会
・麻布十番「たぬき煎餅」親子三代奮戦記−日永 清
・昭和・平成現代史年表−神田 文人
・小説 日本本土決戦−檜山良昭
関連項目
2.防空壕
159.続・防空壕( 麻布山の巨大地下壕 )