麻布な十番(麻布十番商店街)








<このペ−ジの大部分は、稲垣 利吉氏の「十番わがふるさと」から抜粋、要約させて頂いています。>
名前の由来
延宝3年(1675年)幕府が古川の改修工事を行った時、この地点を河口から10番目の工区とし表示の杭が後年まで残り地名になった。と言う説と、元禄11年(1698年)将軍綱吉の別荘を建設した時、舟運のため川さらいを行い、その人足の第10組をここから出したためついと言う両説があるようだ。また享保8年(1723年)芝から移された馬場を十番馬場と言い付近の者が考案した「十番袴」も有名であった。江戸期には、”十番馬場町”など十番を冠した町名があったが、維新後馬場と共に町名も無くなり里俗の地名となった。十番の町名が復活するのは、昭和37年である。


大正、昭和初期の十番
大正時代の麻布十番商店街(稲垣利吉氏の地図)
昭和初期の麻布十番商店街(稲垣利吉氏の地図)

網代橋のなごり


大正時代、十番の交通機関は”市電”だった。当時道路の幅は今の3分の1あまりで電車と人がやっと通れる位であった。一の橋停留所で市電を降りると商店街の入り口に交番があり、口髭をたくわえた巡査がにらみをきかせていた。後方に活動写真小屋があり日活直営第三福宝館と言い、隣は一の橋湯と言う浴場であった。その左がけとばしや(馬肉料理屋)でそばに井戸があり茶の湯の通人が遠くから汲みに来るほどの名水であった。当時十番通り入り口左手から網代橋(網代通り角)まで幅2メ−トル位の大きな溝があり各商店は自前で橋をかけた。しかし大雨がふると木製の橋は流され、それを防ごうとする店員たちで大騒ぎだったと言う。また溝に落とし物をすると”さらい屋”が川に入り見つけてくれた。













関東大震災の時、今の専売病院(当時は煙草専売局の工場)が倒壊して女工の多数が死傷した。商店街は大した被害が出なかったが、「朝鮮の暴徒が十番方面へ押し寄せてくる」と言うデマが飛び交い自警団が各町内で警備した。またこの時麻布に住んでいた喜劇王”エノケン”は浅草から逃げてきた仲間たちに炊き出しを行ったと言う。
震災で無傷だった麻布に各方面から焼け出された人が集まって来て、商店街は未曾有の盛況になった。明治座も末広座(現セイフ−)を借りて公演を行った。この時は、切符を買う人の行列が一の橋までできたと言う。末広座以外にも日活第五福宝館、講釈常席一ノ亭、寄席常席十番クラブ、色物寄席福槌亭などがありそれぞれ盛況だった。山元町の花柳界も治楽、常盤屋、君乃屋を始め、芝浦花柳界、神明花柳界 からも出店され、壮士の親分格武部新作も乗り出してくるほどの盛況であった。この頃のなごりか、私の少年時代の祭りに山元町から女御輿が出ていた。また商店街組合も、商工会、一致会、雑色坂栄会、共栄会と4つもあり、この頃新聞社が東京市内の盛り場の人気投票をした所、新宿、神楽坂に次いで第3位に十番が選ばれた。
昭和に入っても十番の盛況は衰えず、白木屋、コロンバンなど各地の有名店が続々と支店を設けた。この頃の十番は200余りの店が並び 毎夜露店も50軒ほど出店していた。が昭和10年代に入ると戦争の影響が出始め、店から商品が無くなって配給制になり、店員も招集されて 残ったのは、老人と女子供だけになっていった。そして昭和20年4月15日夜半の東京大空襲で十番の中央、雑色通りに焼夷弾が多数落ちて 燃え広がり、商店街のほとんどを焼き尽くした。また5月25日の空襲では宮村町のほとんども焼け出され、十番、宮村町一帯は無人になり 有史以前の姿に戻った。
東京大空襲直後の十番



戦後の十番、復興編












昭和20年8月15日戦争が終わるとまもなく、焼け野原になってしまった十番商店街を復興しようと、対策会議を宮村町山水舎の焼け残った工場で以下の人々が行った。

(麻布十番)
ヤマナカヤ果物店......木村 政吉
白水堂カステラ.......松浦 徳一
洋生地ボタン........熊井 紋次朗
(宮村町)
洗濯店...........千野 芳次郎(宮村町町会長)
山水舎...........斉藤 一太郎
シモタヤ..........井上 富士雄
稲垣油店..........稲垣 利吉

以上の7名で意見を出し合った結果、人を集めるための組織として「麻布十番地域復興会商業協同組合」をつくり、木村 政吉氏が理事長となって活動を開始した。昭和20年12月、宮村町町会長 千野 芳次郎が人を集める方法として十番通りにバラックを建てる必要を力説、その結果40戸を建設することに一決した。建設中台風の為に横倒しになった事もあったが、21年3月には全戸竣工した。この店舗を「十番マ−ケット」と名づけ地域の人々を優先に一戸5千円で売り渡し、5月には約半数が開店した。しかし商品は代用品が多く、仕入先も不明で入荷できず、手持ち品を戸板に置くだけでマ−ケットとは、名ばかりであった。丁度そのころ間口5間ほどの国民酒場が焼け跡(現東京電力営業所)に開かれた。入り口で料金を払い、札をもらって中で飲む。もっと飲みたい人は、また入り口に並ぶといったぐあいに何杯でも飲めた。この酒場で働いたひとは、阿部豊三郎氏、小林長次郎氏の2人で阿部豊三郎氏は後にやきとんの「 あべちゃん」を開店する。このころ お茶の岩田園、崇文堂書店も露店同様に開かれた。



幻の十番音頭












復興の兆しの見えた十番ではあったが、夜は街灯が十番中央の小林玩具店前に1個、一ノ橋電停に1個、小山町大銀杏の前に1個しかなく日が暮れると人通りもほとんどなくなった。また進駐軍が日本人を襲うという噂もあり、実際に暴行事件も起きている。このような中、昭和21年8月28日に復興の促進を願って「麻布十番地域復興会商業協同組合」の総会が開かれ、木村理事長による組合員の意見の聴取が行われた。組合員全員の40数名が集まったが、十番の将来に悲観的な意見が多く、中にはすでに他の盛り場への移転を決定している者達もいた。が移転組は約1割、2割が日和見組程度で、残り7割が十番での復興に意欲的であることがわかった。
しかし「組合」は人手不足から十番の商店のみならず、周辺の住宅地域にまで範囲を広げていたため、復興を商店街のみに絞ることが出来ず、稲垣氏は7割の復興に意欲的な者の中から商店主を選び、組合とは別に復興計画を考えた。
9月中旬頃には「盆踊り」はどうかと言う意見が参加者から出され、早速実行計画に移った。場所は坂下町34番地(現小林玩具店付近)、期間は9月26日から5日間と決め、三村氏(写真)、井上氏(オバタ薬局)、武正氏(紙商)、小林氏(玩具)らが世話人に決定された。 また実行には、さまざまな人がボランティアとなり参加し、消防署、区役所、警察署に実行の要旨を連絡し以下の決定をした。

・9時までに子供は帰宅させる。
・救護所を永井薬局とする。
・不良などが出没したら刑事に通報する。
・商店街の人は、全員世話人になってもらう。
・終了時間を10時半とし11時には消灯する。

そして大会に先立ち稲垣氏は、盆踊り用に「十番音頭」を製作することを思い立ち、早速次の歌詞を作った。

麻布十番 港のギンザ 映えるネオンに人の波
三田の山から涼風吹けば 世界文化の香に満る
十番花柳街夕灯にゆれる 粋な乙女が君を待つ
しのぶ十番巫山の調べ 誇る歴史の華の町

残念ながら、この「十番音頭」は実現しなかったが、当日盆踊り大会は大盛況で以降のイベントへの大きな第1歩となった。







麻布十番老舗一覧(創業年代順)
NO.商号業種創業業暦NO.商号業種創業業暦
1.塩田鰹節寛永17年156年26.篠崎明治38年76年
2.更科そば天明4年197年27.熊田ブリキ明治38年76年
3.酒井陶器文政8年156年28.武蔵屋呉服明治39年75年
4.柴田石材文政8年156年29.エチゴヤ洋品明治39年75年
5.山市天保2年150年30.高梨履き物明治40年74年
6.中村屋ざる嘉永3年133年31.西本洋品明治42年72年
7.永井安政3年131年32.ツルヤ洋品明治42年72年
8.松重果物嘉永元年125年33.山本足袋明治44年70年
9.村野文久元年120年34.紀文堂せんべい明治44年70年
10.石崎綿文久3年118年35.甲陽堂印章明治44年70年
11.川口屋染め物文久3年118年36.信交堂時計大正元年69年
12.豆源慶応元年116年37.大黒屋履き物大正元年69年
13.宮崎慶応元年116年38.小野ござ大正4年66年
14.小林玩具慶応3年114年39.岩田屋鰹節大正6年64年
15.広田屋こんにゃく明治元年113年40.大村そば大正6年64年
16.蟹江荒物明治2年112年41.八百徳青果大正6年64年
17.溜屋明治3年111年42.和田屋食堂大正9年61年
18.鈴木足袋明治3年111年43.反保半襟大正10年60年
19.音居家具明治10年104年44.江波洋服大正10年60年
20.ヤマナカヤ果物明治15年99年45.白水堂カステラ大正11年59年
21.須永呉服明治20年94年46.小幡大正11年59年
22.紀ノ国屋砂糖明治33年81年47.黒田レコ−ド大正12年58年
23.オバナヤ呉服明治34年80年48.つるや洋装大正12年58年
24.山水舎ラムネ明治34年80年49.笹間古書大正13年57年
25.栗原仏具明治35年79年
※この表は、昭和55年稲垣利吉氏が調査したものです。業暦に18年をプラスしてください。
※業種は創業時のもので現在は、転業、廃業されたものもあります。