麻布七不思議



1.逆さいちょう
2.七色椿
3.がま池
4.六本木
5.古川の狸ばやし
6.狸穴(まみあな)
7.俄善坊(がぜんぼう)
8.その他











1. 逆さ いちょう
逆さ銀杏
麻布山善福寺にある推定樹齢770年、高さ35m、幹周り15mの大木。親鸞上人が立てた杖が、 そのまま地に生えてやがて大木となり、その形から逆さ銀杏とも、その成り立ちから御杖銀杏とも呼ばれた。 東京都の天然記念物に指定されている。昭和20年5月25日の空襲で本堂と共に罹災し、銀杏は完全な焼亡は免れたが現在もその焼け跡が残る。戦災の前は現在の3倍位あったそうだ。
「江戸砂子」には乳の出が悪い母親が、この銀杏の皮で治療すると乳の出が良くなると噂され皮を剥ぐ者が後をたたなかったので、周囲に垣根を作って禁止したとある。 また、江戸名所図鑑には親鸞上人が寺を去る際に持っていた杖を地上に刺し、「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如ききか」と言うと杖が根付いたと言う。名の由来は、乳根(気根)が下のほうにさかさに伸びているように見えることからきているともいわれる。
樹横の説明板には、




「国指定天然記念物
善福寺のイチョウ
所在地 港区元麻布一丁目6番21号 麻布山善福寺境内

指定  大正15年10月20日

逆さ銀杏の気根


 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、イチョウ科の落葉高木で、中国原産といわれている。雌雄異株で、神社や寺院の境内樹、公園樹、庭園樹、街路樹として広く植栽されている。4月に開花し、10月には種子(イチョウノ実)は成熟して独特の臭気を放ち、黄葉する。  この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹齢は750年以上と推定される。  善福寺は、昭和20年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。  根がせり上がって、枝先が下に伸びているところから「逆さイチョウ」ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から「杖イチョウ」の別名もある。

 平成2年12月27日 建設    東京都教育委員会」

とある。また麻布山善福寺中興の祖といわれる了海上人誕生の地といわれる品川光福寺(品川区大井6-9-19)には了海上人手植えの逆さ銀杏の兄弟樹があり、 昔から猟師の目印として活用されていた。幹周6.4m、樹高30m、樹齢は推定800年。この樹も品川区の天然記念物に指定されており樹種別幹周:都内9番目といわれる。 。

★杖銀杏−続江戸砂子
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
★杖いてう−江戸鹿子
品川区光福寺の大銀杏
あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。



<関連項目>
麻布山善福寺
柳の井戸
ハリスの公使館(麻布山善福寺−其の弐)
・品川で見つけた麻布−その1(了海上人産湯の井)
・品川で見つけた麻布−その3(光福寺の大いちょう)
・品川で見つけた麻布−その4(了海上人と紀氏)












2.七色椿
七色椿(麻布区史)
暗闇坂を登り氷川神社方面の右手に、七色の大輪の花をつけ、枝を四方に張り咲き乱れた東京でも有数の椿の銘木が あった。別名「化け椿」。この地は、明治の官僚・政治家であった渡辺千秋の長男、実業家で司法大臣、 日仏銀行頭取千冬氏の邸あった。弟は隣接地がま池を屋敷内に持つ渡辺国武子爵で、「がま池」、「陰陽石」、 「七色椿」と麻布七不思議のうち3つを兄弟で所有していたことになる。西町22番地(現在の西町インターナショナルスクール辺)。 昭和12年に枯死。

麻布区史には、
西町22元加奈陀公使館、現クレーン邸内にある。以前は諸岡某氏の邸であった。幹囲1.3米、数株の幹が合したように見へてゐる。古来朝晩花の色を異にすると云って化椿の異名があり、 麻布七不思議の一に数へられた。思ふにこれは数株の椿樹を一纏めにして植えたのが抱合癒着して成長した為めに、 花の色に相異が出来たのであろう。惜しい哉、近年枯損して今は残骸を止めてゐるに過ぎない。〜
とあり麻布区史が出版された昭和16年(1941年)には、すでに枯死していたことが伺える。











3.がま池
昭和期のがま池
宮村町の奥にあった200坪ほどの池。マンション建設の話が出た1970年代後半、 外国人などが中心となって反対していたのを覚えている。伝説の中の幾つかを紹介。

江戸時代後期(文政年間)、このあたりに山崎主税助という五千石の旗本の屋敷があり、この池の主の大がまが、よく座敷の菓子をたべにきていた。 文政4年古川橋から出火した火がこのあたりまで延焼してきた時、この大がまが水を吹き付けて屋敷を守り、菓子の礼をしたそうな。




別説-1

十番稲荷神社のがま像
池の主の大きな蝦蟇が夜中に、見廻りをしていた仲間(ちゅうげん)を池に引きずり込んで殺してしまった。主人の主税助はお気に入りの仲間を殺された事に大いに腹を立て、池の水を掻い出して蝦蟇を退治しようとした。しかし主税助がその晩寝床につくと、枕元に仙人のような老人が現れ「我は永年池に住む蝦蟇であるが、あの仲間は蛙が生まれる度に殺してしまうので仕方なく子の仇をとったのである。だからどうか池の水を掻い出すのは止めて頂きたい。もし願いを聞いてくれるならば以後このような事は二度としない。 そして、当家に火難が降りかかった時は、我の神通力をもって必ず屋敷を守るであろう。」と告げた。
主税助は夢から覚めると今の夢を半信半疑ながら、蝦蟇退治を中止することに決めた。しばらくたった弘化二年の大火の折にこの辺り一帯も猛火に包まれた。そしてこの屋敷にも火が廻ろうとした時、池から大きな蝦蟇が現れて池の水を巻き上げ屋敷一面に吹き付けた。これによって付近は総て焼失したにもかかわらず、山崎家の屋敷だけは難をのがれた。
この噂が世間に広まり、主税助は「上」と書かれた防火のお札(後には火傷のお札)を側用人であった清水家に作らせ「上(じょう)の字様」と呼ぶと、国中から注文が殺到したと言われる。これは当時の大名などがアルバイトとしての収入を得ようとしたもので、芝の金毘羅宮、
赤羽橋の水天宮と同様である。
屋敷は明治になると渡辺国武(大蔵大臣)の所有になったが、お札の販売権?は清水家が継続して任された。清水家は維新後に東町に住む事になったために、本来お札は、がま池の水を八月の決まった日に汲みそれを種に「上」の字を書くのだが、その池が他家の所有となって 使用出来なくなってしまった為に、家の近所の井戸水を使用したと言われる。また清水家の御子息は帝大を卒業し銀行の幹部となったが、 早世した。この帝大時代の学資は「上の字様」からの収益だったと書かれた本もある。 その後昭和になると、末広神社(現麻布十番稲荷)が授与するようになり、現在も続いている。

別説-2

1999年がま池
享保の頃この池の辺に人の良い裕福な百姓が住んでいた。ある日、池に面した座敷でうたた寝をしていると、1匹の蛙が現れて、近いうちに江戸に大火があるが、私がいるからこの辺は大丈夫だ。火事でやけどをした人たちには焼灰をこの水で練ってつければ必ず治る。という夢を見た。不思議に思っていると、二日ほどして赤坂から発した火事は北風に煽られて大火となり、このあたりも火の海になった。すると池から濛々と水蒸気が立ち昇り池の周囲は、一軒も燃えなかったので、人々はがま池の徳を感謝した。 先日の夢を思い出した主人は、焼け跡の灰を池の水を清めて練りやけどをした人たちに無料で施した。するとたちまち全快したので江戸中の評判となり遠方からも求めにくるようになったと言われる

別説-3

ある夏の夕暮れ、山崎主税助の屋敷に来客があって、池に面した縁側で茶を飲みながら話をしていると、置いてある菓子が夕闇の中を池の方に飛んでゆく。不思議に思って菓子が飛んでゆく方を見ると池の中に大きな蝦蟇がいて、菓子を吸っていた。主人の主税助はひどく立腹して明日は池を替え、乾かしてしまうと告げた。するとその晩主税助の枕もとに蝦蟇がやってきて「助けてくれれば、火事の折にはきっと恩返しをするから」と許しを請うた。しかし主税助は、もっと世間の為になる事をするならば助けようと言うと蝦蟇は主税助に火傷のまじないを教え、それが上の字信仰となった。


私も小さい頃よく釣りをしたり、池の端の木でクワガタを捕まえたりした。特にクワガタを捕まえるのは明け方が多かったので、薄暗い池の端に行くのは、とても恐かった。 現在はマンションになってしまったが、裏に池が残っている。
追記

伝説の「がま」が山崎邸に現れたのは麻布区史によると文政4年(1821年)4月2日との事であるが、このように日付まではっきりさせているのは、「上(じょう)の字」信仰の効能を強調するにあたり、その過程で詳細な話が出来ていったとの事。ちなみに屋敷の主山崎主税助は、備中成羽を領する大名の分家で明暦3年、家が無嗣断絶となりその後交代寄合として存続する。
屋敷は現在の本光寺と境を接し、西町インタ−ナショナルスク−ル、安藤記念協会を含んだ広大な敷地であり 安政年間から明治にいたるまで11396坪を有した。それ以降昭和初期までは池の広さが約500坪ほどもあった。また池は、明治35年の「新選東京名所図会」にも登場し、その幽玄さが記されている。 しかし、昭和初期頃から開発が進み一帯が分譲地となり、池も埋め立てられて、その周囲も石垣などで囲まれ景観を失っていった。

マスコミなどで麻布の名所として幾度も取り上げられてきたがま池だが、勘違いされやすいのはこの池は誰でもが入れる公共の施設ではなく、 いつの時代にも「立ち入り禁止の私有地」であったことである。私を含めて多くの近隣の少年たちは この池で遊んだ少年期の体験を有しているが、それは土地所有者の目を盗んで「忍び込んだ」ためで、池の前には土地の管理人の家があり厳しく 人の出入りを監視していた。そして見つかると厳しく叱責されて追い返された。よって子供の目の前で親が叱責されるという 危険を冒してまで侵入する親子連れというのは考えられない。また、大人同士の侵入も不法侵入と見なされ警察に突き出される恐れもあったので 、ほとんどみかけなかった。よってがま池で遊んだ経験を有するのは、そのほとんどが少年のみである。

これにより、地元住民の中でも頻繁にがま池で遊んだ経験を本当に有するのは、周辺で少年期を過ごした者のみかと思われる。後年、数度の がま池保存運動が行われたが、地元住民の中でも池への思いに温度差があるのは、実体験としてのがま池経験を有しているか否かがあったことは否定できないと思われる。




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  4.六本木
六本木交差点付近
おそらく麻布で一番有名な地名。繁華街で私も昔ここの喫茶店でバイトしていたがそれよりも、地元の人にとって六本木といえば”電車”である。麻布で唯一の電車、日比谷線が通っている。家からは15分くらいかかったがそれでも最寄り駅であった。ちなみに私は今、品川のとある駅から2分の所に住んでいる。遅刻は激減した。

芋洗坂、市三(いちみ)坂を登った高台にある。昔5本の榎(えのき)が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべ となっていた。六本木なのになぜ五本?。ものの本によると、昔このあたりは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げるジャングルのようであった。 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。このあたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。 しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木と言うようになったという。
今でも落ち武者のような髪をした若者が行き交っているが、あれはもしかしたら.....

別説に

・江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気からいつのまにか六本木になった。
・竜土町に六本の古木の松があったので付いた。
・この辺りに上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳などの大名屋敷があった為。(十方庵遊歴雑記)

などもある。

また、麻布区史には、

今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる。
とあり、書面には「菖ときわ」内にあった大きな銀杏の木の写真が掲載されている。







<関連項目>
一本松
・山事の手段は人の非に乗ずる事
・池袋の女











5.古川の狸ばやし
狸ばやしとは夜更けになるとどこからともなく、笛や太鼓などの囃子の音が聞こえてくるというもの。 音の聞こえる方向を探してもわからず、歩いているとお囃子の音がまるで自分を追いかけてくるような感じになるといわれる。 これは、古川が「三田側の山塊」と「麻布の山塊」に挟まれた渓谷を流れているため、遠くで演奏されているお囃子が「こだま」しあって 音源がわからなくなるからとも。

「十番わがふるさと」には
この時代には祭囃子は農家の若衆の仕事で、渋谷、目黒村の百姓の青年たちは毎日夜になると神楽太鼓の練習に精を出していた。その太鼓の音律が 川面を伝わって、古川の曲がり角の芒(すすき)や萩の間から聞こえて狸囃しとなり、七不思議の一つとなったのであろう。
とある。
麻布の丘と三田台の谷間に流れる古川も昔は清流だったそうだ。土手には花が咲き乱れ実にすばらしい眺めであり、戦前は泳ぐこともできたそうな。
江戸の頃、このあたり秋になるとすすきやはぎが咲き、月の出る頃になると 川からたぬき囃子が聞こえて、江戸の評判になったそうな。私の子供の頃には, もはやどぶ川になっていたので、さだかではない。

ちなみに先日一の橋を渡っていると、はらつつみを打てそうなデブ猫が歩いていた。



関連記事

たぬきそば
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・我善坊の猫又
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・堀田屋敷の狐狸退治
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6.狸穴(まみあな)の古洞
狸穴坂
現在の東麻布、麻布台辺の地名。江戸の頃永坂、森元、赤羽、飯倉の辺には、馬場があった。ここで売られた乗馬用の袴を十番袴と称していたので,麻布十番と言う地名になったと伝えられている。 このあたりの坂は勾配が急で、竹林に覆われていた。うっかり迷い込むと出られなくなるほどの竹薮だったそうだ。水戸の黄門様も迷ったらしい。 また古洞があり、狸穴の古洞と呼ばれているらしい。
昔たぬきが住んでいたと言われれば、”あり”な地形ではある。

文政町方書上では、
〜当町狸穴町と唱え候儀は、谷合にて古来は木立なども繁りこれあり魔魅も住むべき土地、里俗狸穴と唱え来たり候由。〜
とあり、 麻布区史では「狸穴」の由来を「南留別志」を引用して、
まみ穴といふ所は古金ほりたる穴なり、まみはまぶの事なり、享保六年の頃黄金のようなる砂いでたれど、 いまだ年のたらぬ金なりとてほらずなり。
と記している。また動物説については、
〜何と云っても多いのはマミ即ち狸に類した動物棲息の穴と云う論である。〜
として雌狸(江戸砂子)、魔魅(江戸総鹿子・府内備考等)、猯(新編江戸志)などの当て字を紹介している。
また、麻布−その北東部ーでは「江戸砂子」の内容をを引用して、
狸穴坂碑
雌狸穴、長坂のひがし也。これも坂なれども、ただまみ穴とばかり云いて、坂とはいはず。此坂に雌狸の住ける 大なる穴ありとぞ。或いは上古、銅の出でしまぶ穴と云説あり、いかが。
としている。

講談「狸穴の婚礼」では、
麻布村に「狸穴」という穴があった。この穴は品川の御殿山から四谷まで続いていたそうで、この穴の中に住む数千のタヌキが 田畑を荒らしたり、子供を取ったりして付近の百姓を苦しめていたという。徳川家康が江戸入府したときに家臣の井伊直政はこの噂を聞きつけ、家老の豪傑(ごうけつ)奄原助左右衛門(いおはら・すけざえもん)にタヌキ退治を命じた。 助左右衛門が麻布村の狸穴に50人の家来を連れて入ってゆくと、やがて美少年が現れ助左右衛門を主人の御殿に案内した。

美少年の主人は婚礼の儀式の最中で助左右衛門にも酒を勧めた。家臣たちは怖がって誰も手を付けなかったが、助左右衛門は気にせずに呑んだ。しかしやがて酔いを発した助左右衛門が寝入ってしまうと館の主人がその枕元に立ち、 「俺は狸穴の主人だ。こしゃくな奴だがその方の剛胆に免じて、今日はこのまま帰してやる。江戸も騒がしくなったのでまもなく引っ越すから、退治は無用」といったが、 目の覚めた助左右衛門は、「今日は主人の命令でお前を退治しにきた。」というと持っていた刀を抜き打ちに斬りつけた。 すると今までいた御殿は一面の炎とともにかき消え、主人も消えた。そして炎の中から数百のタヌキが助左右衛門に飛びかかり、助左右衛門は刀を抜いて戦った。 やがて「御家老さま、如何しました?」という家来の声で気がつき、辺りを見回すと、すべては夢であった。

「恐ろしい奴らだ」と穴から出て陣屋に帰ると、その後、天正18年8月10日、麻布一帯に家なり・地響きが起こったので 助左右衛門は地鳴りの原因を狸穴のタヌキと考えて数百の家臣を連れて穴の前に行ってみると、狸穴のタヌキが行列をなして引越しの最中であった。そこで助左右衛門はためらわずに鉄砲を撃ちかけ、すべてタヌキを退治してしまった。 その後麻布は家も増えて立派な町になったが、あの時に退治された子ダヌキがたった一匹残り、ネコの父で育てられた。 このタヌキが長じて近所の人に害をなし、そのタヌキが退治されると今度はネコが仇をなし、続いて鼠が害をなすという麻布七不思議の因縁がからんでくる。
として狸穴の狸と我善坊の猫又の因縁を記している。

住居表示
また、この狸穴坂近辺は永坂町と隣接し、区内で唯一住居表示の変更が行われなかった場所である。 港区は昭和37年に国会で制定された「住居表示に関する法律」に従ってそれまでの「麻布」を冠した45あまりの町名を変更した。これにより 「麻布狸穴町」「麻布永坂町」の二つ以外の総ての町名が 宮村町→元麻布2、3丁目、日ヶ窪→六本木六丁目など安易な住居表示に変更 された。しかし、 この近辺では住民による町名変更反対運動があり、永坂町に住む松山善三・高峰秀子夫妻やブリヂストンの石橋正次郎、 狸穴町の木内信胤らが中心となり変更を拒んだ。 これにより港区では区内の住居表示変更を完遂することが出来ず、現在もその達成率は97.4%となっている。 この地域は、現在も住居表示が「麻布狸穴町」「麻布永坂町」と麻布を冠しており、江戸期から続く由緒ある町名が守られている貴重な地域である。









<関連項目>
たぬきそば
・麻布七不思議の定説探し
・麻布を騒がせた動物たち(其の壱・たぬき編)
・麻布を騒がせた動物たち(其の弐・きつね・他 編))
・狸坂
・狐坂
・我善坊の猫又
・麻布さる騒動−その1
・麻布さる騒動−その2
・化けそこねた泥棒キツネ
・猿助の塚
・堀田屋敷の狐狸退治






















7.我善坊(がぜんぼう)



我善坊町
昔この辺り(現在の麻布台1丁目近辺)に古寺があり、ここのお坊さんの名が我善坊と言った。 顔がとても恐かったが気が優しくて、近所の子供たちに慕われていたそうだ。ちょうど良寛さん のようであったので有名になり、七不思議の一つの数えられるようになったらしい。

麻布区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌などをあげて秀忠婦人崇源院(お江与の方) の火葬の際の龕前堂(がぜんどう−荼毘所)があったからという説が主流だと一応紹介しつつも、六本木深廣寺に灰塚が あることから我善坊谷とはあまりにも遠く、また江寛永初期の書物「紫の一本」では崇源院に全く触れられて いないため、座禅する僧すなわち「座禅坊」が語源とする説を取り上げている。 また第五編第2章町史では我善坊町の項で、

一に我善坊谷と呼ぶ南北高阜に挟まれた低地である。地名の起源に就いては、或いは座禅坊谷となし、或いは 龕前堂谷とする。多く後説に従って崇源院殿御火葬の折、霊龕安置の仮堂を置くに始まるとしてゐるが、其の 誤なることについては〜
と、崇源院荼毘所説を完全に否定している。

しかし港区史では、御府内備考、江戸砂子、寛永記、改選江戸誌など多くの書籍が秀忠婦人崇源院荼毘所(龕前堂-がぜんどう)説を 取り上げていることから、
火葬の場所は六本木であったとしても、増上寺からの途中に種々の設備をおいたようであるから(東武実録)、全くの無根とすることもできかねる。 「港区史−上巻996P」
と、麻布区史では「誤り」と明記された崇源院荼毘所説を、再び肯定している。



我善坊谷坂
<関連項目>
・我善坊の猫又


















8.その他
この他にもいろいろな麻布七不思議があるようで、

明治34年「東京風俗誌」では、

1.善福寺の逆さ銀杏
2.一本松のお松様
3.六本木の六本木
4.柳の井戸
5.東町の鷹石
6.永坂の脚気石
7.狸穴の狸蕎麦


また、 大正7年「東都新繁昌記」によると、

1.狸穴の婚礼
2.大黒坂の猫又
3.我善坊の大鼠
4.古川の狸蕎麦
5.谷町の遊女屋敷
6.二本松の赤子
7.白金御殿の一本足


昭和16年麻布区史では郷土研究家の中山狐村氏

1.善福寺の逆さ銀杏
2.六本木
3.かなめ石
4.釜なし横丁
5.狸穴の古洞
6.秋月の羽衣松
7.広尾の送り囃子


と定義している。





<関連項目>
番外麻布七不思議
むかし,むかし
麻布七不思議の定説探し













この他、麻布以外にも東京には「番町七不思議」、「本所七不思議」などが有名。その中で本所七不思議をご紹介。

9.本所七不思議


1.足洗い屋敷
人が寝静まった頃、天井から大きな足が現れ、足を洗えと言う。家人が洗えば何事も起こらないが、洗わないと地鳴り震動の大暴れをする。

2.狸囃子
月夜の晩に狸囃子が聞こえるが、音を聞いて近づくと、また遥か遠くに聞こえる。

3.片葉の芦
留蔵というならず者がお駒という娘に恋をしたが、相手にされなかったので或る夜お駒を誘い出し、片手を切り落として池に投げ込んだ。それ以降、この池に生える芦は片方だけしか葉がなかった。

4.無灯そば
夜更けに屋台の蕎麦屋の明かりが一つ灯っていた。近づいてみると誰もいない。いくら待っても屋台主も現れないが、いたずらなどをすると、祟りがある。

5.送り提灯
おぼろ月夜の晩に、ほろ酔いの武士が供の者と歩いていると、ぽつんと提灯の火が見えたが、不思議に思って 近づくと、また遠くにぽつんと提灯の火が見える。家に着くまで提灯の火はついてくる。

6.おいてけ堀
本所には昔、池や堀が点在していた。思わぬ大漁に気を良くして日暮れまでいると、堀の中から「おいてけ、おいてけ」と声がしてビクの中を見ると空っぽになっている。

7.送り拍子木
雨模様の夜道に、夜廻りが火の用心を叫びながら歩いていると、自分とは違う拍子木の音が、ずっと付いてくる。






















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